少子化・ボッチは素敵な果実
今の世の中って
インテリジェント・デザイン進化説
先ごろ、ローマ教皇が、進化説も一つの仮説として認めるよ(1)。とおっしゃって波紋が広がった。「神は人を神の似姿として造られた」のでたぶん、人類については論議の外なのだろう。ただ身体と魂とを分けて考えているようなので、肉体は進化論でも魂は……のアクロバットもありか。
「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」の精神で、カンブリア大爆発(2)というセカンドインパクトも生じた。インテリジェントデザイン説(3)なのだから、進化の結果はとうぜんお見通しなのでしょうね。神。今の世の中をどう捉えていらっしゃるのやら。
揺らいでいる社会情勢
先進国は少子化(4)に悩んでいます。社会構造が揺らいでいます。同時に経済活動も揺らいでいます。人類は精神的に動揺しています。結婚する気にならない男達。女性の社会進出と、賃金低下。そもそも就職難。不景気だから。能力や、機会の不均衡による格差拡大。若者が減って老人が増える。社会保障費負担が増えて、社会保障受給は限りなく期待薄。
友人関係の変化
通信技術の進歩によって、オンラインでの友人は増量中(5)。でもボッチ(6)も増えていて、こちらも格差増大。独りで昼食食べているのが恥ずかしいので、トイレで食べる便所飯(7)なんて報告も。お独り様ランチ、お一人様カラオケ、お一人様焼肉なんかはずいぶん前にトレンドになったこともありましたが、今回のは負のブームらしい。
ボッチきわまると、引き篭もり(8)。就職、友人関係、結婚とは無縁。ただ、やっぱりネットがあるので、無縁とも言い切れないか。リアルでは、ひとりが気楽。でも、両親の死と、その後の餓死、孤独死の不安に苛まれる日々(9)を、睡眠とネットで繰り延べる毎日だ。
拡大する貧富の差
貧富の差は広がって、援助されている発展途上国は多産で飢える。せっかく作った井戸も翌日には解体されて、自立できません、と開き直るところもあるとか(10)。国際的には発展途上国にはいつまでも発展途上国でいてもらわないと困る事情もあるらしく、せめて、避妊すればいいのに多産少育の環境(11)なのだろう。
進化
筆者のスタンス
進化には方向がある。そこに神の手が介在しているのかいないのかはそれぞれの意見でかまわない。私は、そういうものは無いと考えているので、以下はそういう立ち位置になる。
この世界がどのように生じたのかの研究は、量子物理学とかが、がんばっている。私はそういう科学の取り組みを全面的に受け入れつつ、[涅槃寂静]を基本と考える。[絶対の一]が揺らいで、分割が始まり、ある一定のところで、大爆発がおこる。空間が生じて、時間の種が生じる。物質が生じて、質量が生じる。それから生命が誕生する。それは仏教的視点で捉えた私の宇宙創造論であり、今後の科学の成果に応じて、書きかえられていく。あらゆるものが、仏教理解の手がかりだ。
不思議なこと
不思議なのは、なぜ、生命が、「生めよ。増えよ。地に満ちよ」という「存在の継続」を第一とするものとなったのかだ。それは、そのようだから、そうなのだ、と、現在は保留するしかない。ただ、これは生命だけには留まらないのかもしれない。無機物と分類されるものであっても、存在し続けようという頑なさが、このような形に結集しているように思われる。ともかく、物は、存続し続けようとする。そのための方策が、さまざまに発展していって、淘汰されていって、現在の世界がある。
資本主義社会への到達
人類の場合、資本主義(12)がその体制をしめ、膨大な人口を存続させている。この制度でなければこれだけの人口を養うことはできなかったろうし、この体制にいきついたから、人口がこれほど増えたのだともいえる。科学技術の発展。資源の活用。格差を必要とする社会体制。そろそろデッドエンドに近づいているように思われる。
仏教の導入
まづは「業」と「存在することの悲しみ」
それを悪いことだと断じるのは早計だ。この世に存在したものは存続を求める。仏教では、それを「業」と呼ぶ。「業」とは、かつて涅槃寂静であった絶対の一に生じた揺らぎによって生じた「部分」という仮の存在の本質だった。それは分かたれてしまった悲しみだ。存在でありながら存在でないという不安だ。存在を存在であらしめるためには、存在し続けなければならない。だが、存在し続けることは、絶対の一からの別離を意味している。この二律背反が存在の悲しみだ。
ブッダはこう言った
ブッダはこの「存在し続けることの悲しみ」を「生老病死」「愛別苦離」とまとめた。前者は、人間の肉体の悲しみ。後者は「我」を持つ物が担う、社会的存在の悲しみである。そして、「それらからは離れることができる、その方法はある」と教えた。いわく、解脱、悟りへのメソッドだ。それについての詳しい説明は、他に譲る。
悟り世代とボッチ
ここでは、そのための方法に即した生活を送らざるをえない現在、少子化とボッチが現れ、悟りの世代といわれている点について考えたことを書きたかった。
諦めたものは?
物欲無く、向上心を持たない世代。これは菩薩行を行ううえで理想的だ。たとえそれが、将来に対する諦めであっても、その価値は変わらない。物欲も向上心も、結局は現代の資本主義社会における快楽を求めよ、という言っているに過ぎないからだ。
老人世代のための社会保障費用負担にあえぎ、自らへの見返りはほとんど無い。収入が減り、済むところもなく、最低限の食事にありつくために、あらゆるものを金にかえ、不規則な仕事に従事する。これは僧侶の生活に近い。質素に暮らし布施をする。国家的にも、見返りをもとめない海外援助を、国内対策は二の次でバンバンお金を出している。それも、わずかな所得から差し引かれる税金や消費税からだ。つまり、布施していると思わずに布施をする。正しい方法だ。
ボッチと輪廻
さらに、ボッチでいることは、この世を輪廻から解脱させるために有効だ。輪廻というのは、別に、故人の魂が新たな生命に宿ることではないと考える。この人間という身体が生じるのは、例えば、川の流れの淀みにゴミがひっかかり、そのゴミのせいで川に渦が生じて、周辺のゴミを巻き込んでどんどんゴミが大きくなる、とのゴミと同じだと考える。(じつは、ゴミ本体など無いと考えているがその説明は煩雑なのであえてゴミとする)
ゴミは頑なさをもつ物体そのものである。川に淀みが生じるのは、川幅や勾配、曲流によるという比喩なら分かりやすいが、ここでは水そのものの粘度とする。さらさらなら淀まない。ドロドロなら淀みやすい。ドロドロになる理由は細かなゴミのためだから、結局はゴミ(物体)せいなのだ。
「我」とはゴミ
ゴミ同士はつながろうとする。つながって出来上がったものを「我」と認識したがる。そしてそのようにできた「我」同士が干渉しあって流れを複雑にし、より淀ませて、同じような「我」を大量に生み出す。やがて、流れそのものが途絶し淀みとなり沼となる。川にするには、ゴミを流すしかない。ゴミを流すとは、「我」を解体することだ。それは他とのしがらみを絶つということだ。しがらみを立つとは、愛も憎しみも、悲しみも、さげすみも、尊敬も、あらゆる全ての関係を持たないことだ。そうした一切の感情までもが、ゴミとなって水を淀ませるからだ。ボッチは、水を浄化させるだろう。これは「犀の角のように独り静かに歩め」といわれたブッダの言葉に則している。ボッチは修行の第一歩である。便所飯も前例がある。ラーフラは、便所で寝ていたという(13)。ブッダの弟子と同じ姿勢なのだから。
行為の成果
布施の効力
わずかずつであるが、少子化という成果が現れている。川が浄化してきた証拠である。ゴミの塊でできにくくなってきているわけだ。布施の効力である。
ボッチが生きる目標とは
ボッチで生きるつらさに耐えるためには、この姿勢が世界を変えているのだと確信しなければならない。布施だけでは自分本位である。そこで、回向という修行があるそうだ。利己的修行から利他的大乗へ。目的意識がもてればボッチもむなしくなくなることだろう。詳しくは別に譲る。
修行の場
では、発展途上国での人口増加はどうなっているのか? あらゆる障壁をそれに平然と耐える修行とせよというのが仏教の教えであることから、さらなる布施を行うことができる場とみなせばよい。見返りを求めず、どしどし援助すべし。開き直られても腹を立てず、当然のように、我々の税金をつぎ込むべし。可能であれば、現地で働いたりすることもよい。人類の解脱のために。
まとめ
進化の方向性
さて、冒頭に進化について書いたのは、存在の存続を求める物質が到達した人類というあり方の未来が、「我」を守るための戦いか、資源の枯渇による絶滅に到るという、あたかも筋書きを書いているものがあったかのように感じられてしまうからだ。
私はこの結末は、デザインされたものではないと考える。また、物のあり方として、それは妥当なのだと考えている。もともと[絶対の一]であったものが、部分を内包したままあり続けられるはずはないのだから。カタストロフがあって、残った物の存続のための闘争が始まるのだろう。
将来を担う子供達へは
人類の絶滅=縁起の消滅=解脱の完成(ただし、人間以外については未定)という観点からすれば、少子化は喜ぶべきである。そして、今を生きる子供達には、ぜひ、「ぼっちになって、誰からも相手にされず、誰も恨まず、この世界に未練も残さずに、回向を続けるように」と教育すべきだ。資本主義社会の存続よりも、人類の解脱に向けて。