望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

『サラダ記念日』を改めて初めて読んだ ――言文一致体へ

はじめに

 あまりにも有名な俵万智さんの『サラダ記念日』

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1987年に、短歌を一新したエポックメイキングな歌集。

『口語を使った清新な表現で』と紹介文にもあるように、当時は「ああ、短歌はこんなに自然な言葉で作っていいんだ」と、一般に広まったと記憶している。

 最近、短歌を創ったり、短歌に関する本を読んだりすることが多いなかで、「あ、そういえば」と、すっかり読んだ気になっていた『サラダ記念日』を、通読したことがなかったと気付いた。

 それで読んでみて、ざっとまとめた感想がこちら。

ちゃんと通読したことがなく、通読しなければと考えていた『サラダ記念日』。
 当時、この本が巻き起こした一大センセーション(俵さん、国語の先生だっただけにね、なんて)は、あの時期に書かれるべくして書かれ、歌壇と大衆とを、当時の時代の感性で繋いだ奇跡の橋だったと感じる。
 歌壇はもちろん、コピーライターの世界でも、糸井重里さん以来の激震が走ったらしい。この歌集により、短歌はあきらかに一般のものとなった。それは、本書の跋によれば、「口語定型の完成。端的にいって文末助詞の処理の成功」に尽きる、とある。
 歌われている内容は、万葉のころから変わらない。とりわけ、思慕、敬愛、恋愛、色欲。
 今回通読して感じるのは、その文体が「言文一致運動」当時の実験的散文に酷似した、口語文語の混交文であることだ。
 すっかり口語が定着した現在において、サラダ記念日の短歌の喉越しは、非常に違和感がある。『短歌の作り方教えます』で本人も書いていらっしゃったと記憶しているが、『サラダ記念日』において、当時は「口語体」が目立っていたが、現在ではむしろその「文語体」が際立ってくる。
 しかし、それで『サラダ記念日』の価値が損なわれるなどということはもちろん無い。むしろ、口語が当たり前となり、短歌と詠み手との距離がぐずぐずになりがちな現在だからこそ、「短歌」の「短歌」たる意義として、『サラダ記念日』は屹立し続けている。

  ということで、言いたい事はこれで尽きている。

 今回は、俵万智さんの、文語が目立つ短歌を拾っておきたい。上記感想の「言文一致運動」期の散文も直面した、文体(主に語尾)問題については、また採り上げることもあるかと思う。

サラダ記念日より抜粋

八月の朝(第三十二回角川短歌賞

この曲と決めて海岸沿いの道とばす君なり「ホテルカリフォルニア」

空の青海のあおさのその間(あわい)サーフボードの君を見つめる

白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ 若山牧水本歌取り

陽のあたる壁にもたれて座りおり平行線の吾(あ)と君の足

(~おり はこの歌集に頻出する。今なら、躊躇なく「座ってる」と書くこともできる)

捨てるかもしれ写真を何枚も真面目に撮っている九十九里

左手での指ひとつひとつずつさぐる仕草は愛かもしれ

「じゃあな」という言葉いつもと変わらに何か違っている水曜日

君を待つことなくなりて快晴の土曜も雨の火曜も同じ

野球ゲーム(第三十一回 角川短歌賞次席)

いつ見ても三つ並んで売られおる風呂屋の壁の「耳かきセット」

朝のネクタイ

日曜の朝のネクタイ選びおる磁性材料研究所長

希土類元素(レア・アース)とともに息して来し父はモジリアーニの女を愛す

風になる

手紙には愛あふれたりその愛は消印の日のそのときの愛

見しことの濁りを洗い流すごとコンタクトレンズ強く滌げる

饒舌なるバースデーカード購いぬ我の空白を埋める文字たち

夏の船

なつかしい町となるらん西安(シーアン)に今日で二度目の洗濯をする

橋本高校

忘れことのみ多六月にガラス細工の文鎮を置く

洗い場に筆をすすぎ不規則に流れるものに心ひかれ

待ち人ごっこ

「クロッカスが咲きました」という書き出してふいに手紙を書きたくなり

あかねさすテラスはつかに春を告げくるんと次の葉を出すアビス

(枕詞 あかねさす 「日」「昼」「紫」「君」など ここでは「テラス(照らす)」)

サラダ記念日

ゴアという町の祭りを知りたけれどここはそらみつ大和の国

(枕詞 そらみつ 「大和」)

地下鉄の出口に立ち今我を迎える人のなきことふいに

角砂糖なめて終わっていく春に二十二歳のシャツ脱ぎ捨て

むらぎもの心おもいっきり投げきっと天気になる明日のため

(枕詞 むらぎも 「心」)

トーストの焼き上がりよく我が部屋の空気ようよう夏になりゆく

ワイシャツをぱぱんと伸ばし干しおれば心ま白く陽に透けてゆく

左右対称の我

母と焼くパンのにおいの香ばし真夏真昼の記憶閉ざさん

東京へ発つ朝母は老けて見これから会わぬ年月の分

ちぐはぐな会話交せり母と娘(こ)のつながり信用しすぎていたか

庭に出て朝のトマトをもぎおればここはつくづくふるさとである

ふるさとの我が家に我の歯ブラシのなきこと母に言う大晦日

元気でね

思索的雨の降りいるグランドに向きあいて立つサッカーゴール

(思索的雨が降ってるグランドに向きあって立つサッカーゴール、とは敢えてしない)

オムライスをまこと器用に食べおれば〈ケチャップ味が好き〉とメモする

「元気でね」マクドナルドの片隅に最後の手紙を書き上げており

ジャズコンサート・IMA

ステージを写し続けるカメラマン彼も何かを奏でておりぬ

路地裏の猫

寂しくてつけたテレビの画面には女が男の首しめており

天ぷらをささやくように揚げる音聞きおり三時半のそば屋に

ひとつだけ言いそびれたる言の葉の葉とうがらしがほろほろ苦い

おわりに

これらの短歌は、すでに私が『サラダ記念日』から、好きな歌として拾ったものの中からのみ、さらに引いたものであり、しかもその中の文語を含むすべての短歌というわけでもない。

この『サラダ記念日』という歌集を通読して感じたのは、「連作」とはどのように構成されるべきものなのか、のよいお手本だということと、口語と文語を一歌集内、および一首内で混ぜて用いることの意味と効果が十分に計算されていたのだろうということである。

『サラダ記念日』は売れた。それは売るための戦略をもって生み出された歌集であったと思う。

無論、そのことがこの歌集の意義を損なうことは全くなく、冒頭の感想でも述べた通り、『短歌』『歌集』の手本として銘記されるべき金字塔である。