望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

寺山修司さんの短歌を五・七・五に還元するという戯言 2 『空には本 冬の斧』

はじめに

 今回のブログは、

mochizuki.hatenablog.jp

 の第二回。『空には本 冬の斧』を考えます。

凡例

底本は『寺山修司青春歌集』角川文庫 平成四年三月十五日改訂初版の「空には本」の、今回は 冬の斧。

基本的に機械的な切り取りと並べ替えによって短歌→俳句を再構成する。

俳句は無季、破調を含む。

助詞などの書き換え、付加及び短歌にない言葉の使用、季語の追加に関しては( )を付する。

一つの短歌から複数の俳句化が可能な場合はそれを連記する。

俳句化した短歌は転記せず、俳句化できなかった短歌のみ転記する。

俳句化した際に削除された情景等のうち、重要と思われる要素を【 】内に記載する。

上句をそのまま転記して俳句化したものは☆をつける。

あくまでも私的な戯言であり、俳句化の成功失敗および出来栄えは全て私の技量による。

実作 「空には本」冬の斧 による検証

さむざむとどの畔よりも夕焼け見ゆ【父の遺産】

捨てにき(て)濁流はやし詩の紙屑【しばし惜しむ】

一ふりの斧またぎとぶ路地さむき

ゆくかぎり枯野とくもる空ばかり☆

寒林へ銃声(を)ききたくてきし
銃声をききた(し)寒林(に)尿まりて

外套のままのひる寝に父(の)霊

陽(のあたる)壁にたてかけ冬の斧

夕焼けし大地の蟻をまたぎ帰(る)
勝つことを怖るるわれか夕焼けし☆

外套を着れば失う何かあり☆

鳶遠ければさむき望遠鏡に飢え

のこされし杭一本(が)さむき田に

鶏屠りきしジャンパーを吊るしたる☆

冬鵙の叫喚はげしい椅子さむく☆

青空(を)撃ち硝煙を嗅ぎ(にけり)

びしょ濡れの帽子と雲雀父葬り

めつむりていても濁流はやかりき☆【食えざる詩】

ほそき畦巨きな牛にふさがる(る)

胸冷えてくもる冬沼のぞきおり☆

冬の欅勝利のごとく立ちていん☆

悪霊や吊られし外套の前さむし

北へはしる鉄路に立てばわれを捨(つ)

おわりに

俳句に切り詰めることで、ニュアンスが切り捨てられたり、感情や動作の主体、受動的な状態などの、具体的な叙情的景色が省略されたりする。そうした「欠落」を補って因果関係を明確にして「意味」を掴みたいがために、読者は自らの経験に照らした、パズルを解くかのような推理を余儀なくされ、そこに、読者自身のニュアンスが付与されて、俳句は読者の経験となる。だから、俳句は(因果的に)不完全でよい。俳句は開かれることが可能な形式なのだから。

だから俳句は唯物であるべきだと思う。

従って、「さむい」や「はやい」などといった感覚的な説明語も使いたくはない。すると俳句とは、とことん「絵画」に近づいていく。

俳句と写真の親和性。それは写真を俳句が説明するというものでも、俳句を写真が補完するというものでもない。また、写真に限らず言葉を用いることのない「共時的(完全な共時は世間諦では不可能)顕現」、すなわち、ロゴス色が比較的少なめな表現の範疇にはいるのだといえるだろう。

短歌は、俳句よりもかなりロゴス的なのであって、そのロゴスによって叙情を表すという、もしかしたら不幸な、捩じれを抱えているような気がする。ロゴスによる叙情とは、ラブレターだ。短歌が歌垣などに用いられ、現代においても、相聞歌が主流(と私には思われる)なのは、短歌の形式の宿命なのではないかと思う。

次回は、『空には本 直角な空』を考えてみたい。