望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

似てるっ! ――『音楽寅さん』における桑田さんの「似てるっ!」という感嘆詞

はじめに

音楽寅さんという懐かしい番組で、オープニングテーマを作る回を見ていると、桑田さんは、うまくいった! いい! 最高! など肯定的な感極まった時の感嘆詞として「似てるっ!」を用いていた。

これが、「来た」

 同様の感嘆詞に「近い!」「来てる!」「触った!」などがあると思う。私は「近い!」をよく用いている。

表現者が肯定的な意味で「似てるっ!」を用いるとき、そこには、宗教哲学的バックボーンがあると思う。それは、「一」と「多」だ。

宗教的(存在論的)背景

世界は経時的には、単純から複雑への推移と捉えられる。

世界は均質で分割不可能な「一」に始まる。それは分割されることなく「多」を生じさせる。これは、あらゆる宗教の歴史観に共通する。

この「一」から、どのように「多」を顕現した現世界が生じるのか? 各宗教はこの仕組みを教義に組込むのにたいへん苦労していた。

 仏教は「外部からの風」により波が立つ、という比喩で「襞」によって世界の多様性を説明したり、ガラスの曇りのせいで、それぞれが異なる顕現認知をする如来像思想を提唱したりした。

 イスラーム教では「タウヒード」という鏡面反射の位置の違いによる多種多様な結像と、説明する。

 またキリスト教では、神の、分割増殖可能な聖霊によって人間界に「多」をもたらす。

共通しているのは、みな「一」から離れたものとして「一の似姿」を増殖させる機構を工夫しているという点である。それ以外、コピー不能な絶対超越者「一」を増殖させる術はないからだ。

一神教は、神を絶対超越者とみなすので、偶像はタブーとなる。なぜなら、それは「似姿」すら造形不可能だからである。また、仏教の場合、偶像を禁じるのは、全ては妄執だからであるが、修行のための「方便」として、そのような似姿を用いることは禁じていない。 このようなタブーとは全く逆の理由でコピーがタブーとされものに、貨幣があるが、それは後述する。

「似てるっ!」とは、この「一」に「似てる」ということなのである。そのものをそのまま再現できない限り、「一」に限りなく漸近する表現の最高の誉め言葉が「似てる」であることは、まことに存在論的に全く妥当である。

そして、神の国に入ったり、悟りを開いた場合には「似てる!」ではなく「成った!」という最高の感嘆詞が用いられるであろう。

美学的観点

私は「イデア」論を認めないが、「美」を「美」として認める基準としての「美のイデア」を想定する思考停止の考え方は理解できる。

「理想」は顕現させなければ現象せず、現象には必ず「原因とプロセスと媒体」が関与せざるをえない。それらは、理想の濁りとして作用する。むろん、この濁りがあることによって、理想が物となれるのである。『遅い光が物質だ』という考え方があるが、それは『濁り』とよみかえてもよいものである。巣通しのガラスは不可視だが、汚れがあれば可視となる。この汚れが業であり個性である、とすれば如来像の非常に不完全な譬えとなるだろう。

理想のフレーズ。それはまだ明確になってはいない。だが、何らかの偶然(事故)を期待しつつ、これまでの経験を全開にしてギターをかき鳴らすなかで、理想のフレーズに漸近した、近づいた、僅かに触れたと全身が感ずる瞬間がある。それが、今自分が期せずして鳴らした音であった、というとき「似てるっ!」は誠に理にかなった感嘆詞である。

モデル

似ているがつまらないモノマネ。似ていないがおもしろいモノマネ。これをXY軸上に分布させたらおもしろうだろうと思う。

それはさておき、私は「オリジナリティー」を「編集」の一点において認めるものである。仏教が当初から説明しているとおり、我々は必ず先達をもち、それぞれが理想の誰かの何かを真似するところからしか始まらない。そして、我々は何かを認識、判断する際、必ず経験によって脳内で随時更新されていくモデルとの誤差を、絶え間なく測定することしかできない。

モデルと全く同じ刺激を受けてもつまらないし、モデルからあまりにもかけ離れた刺激では反応に時間を要する。「似てる」を繰り返すことでモデルを作り替えていくことが刺激的体験となるのである。

我々は真似ることしかできないし、似ることしかできない。ただし、似せよう、という姿勢は窃盗の誹りを免れない。この差は微妙なようで、大きい。

反復

反復によって同型の細部を豊に繰り返していく形がある。フラクタルであり、マンダラであり、キャンベルトマトスープ缶である。かつて私はそれを「龍」と呼んだ。

 

mochizuki.hatenablog.jp

 そのような大局でとらえれば、歴史の一回性もまた、反復である。だが「一」においては、それを反復ととらえるのは退屈である。「龍」は「一」を胎動させる機構だからだ。

 反復においては「似てる」の「差異」に重点がおかれる。ミニマルミュージックでは、反復のズレが新たなハーモニーとリズムのうねりをもたらす。そのような効果は、経時的世界に特有の現象で、そうしたズレが多様性をもたらす点で、DNA構造はそのための機構である。

 進化のジャンプにおいては、むしろ「似ていない」ことに可能性を見出されるであろう。進化には目的はなく、従って理想もないからである。

表現者は過去作の反復を目指さない。それはつまり「似ていない」ことを目指さないということだ。


(理想に)似ていることは、(先人に)似ていないことであり、(先人に)似ていないことは(比較対象可能であるという点で)似ていることを意味する。

シミュラークル

複製情報を「似てる」とは感じない。似ていない複製とは劣化コピーである。

ところで、情報は劣化しない。劣化するのは「メディア(媒体)」である。デジタルデータにコピー制限(それはテロメアを思わせる。情報に時間の死を与えるプログラムだ)をかけるのは、それがオリジナルと同じだからだ。

氾濫するオリジナル。それをオリジナルなきコピーとパラフレーズしたのが、80年代の記号論である。

コピーを禁じられるものは、コピー不可能な場合(偶像)と、コピーがオリジナルとして機能してしまう場合(デジタルデータ・貨幣)の二通りだ。

オリジナルとコピーという図式は、もちろんイデアと物の図式の劣化コピーなのであり、つまりは、この顕現している世界の全てはオリジナルなきコピーの氾濫なのである。そのような世界では、あらゆるものが、野放図に「似ている」のが当たり前なのだ。だから人々は「オリジナル」という虚像を求め、世界に一つだけの花、というありふれたコピーを御守のように抱えている。「似てる!」というオリジナリティーなど気づきもせずに。

おわりに

「似てるっ!」という感嘆詞から、とりあえず思いつくままに項目を列挙し、それぞれに思うところを書き留めた。さらに、ユング集合的無意識や、エコラリアス(言語)、贋作、類と系、見立て、なども取り上げたかったのだが、構成しきれなかった。それらはまたいづれ