望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

SDGsに貨幣は不要

はじめに

 昨日、新型コロナ肺炎の感染防止のためのさまざまな要請について、思ったことをつらつらと書いたブログを上げて消した。その結びとして書いたのが以下の文章だった。

社会制度と生命との関係を、見直すべきなのだと思う。呼吸する空気の偏在を正すため、過分に蓄えている空気を外部へ放出し、みなが楽に呼吸できる環境を実現するために。そして後には空気がお金ではなく、真性の空気であるような環境であり、それがいつまでも続くような地球とするために。

  人間は社会性の動物で、「群れ」で行動する生態をもち「群れ」においてはそれぞれが、「群れ」に貢献する活動を分業、協力しあうことを義務付けられている。このようなシステムによって生きるものの中では、「蟻」と「蜂」とがもっとも進化徹底しているように思う。両者に共通することは、「群れ(巣)」母子家庭であるということと、カーストは生まれたときから死ぬまで固定されていることだ。

 蟻や蜂に個我はあるか? そのような固定的差別に「否」を唱え、革命を起こそうとする者が現れないことをもって、個我はないと断じるのは早計だ。独裁者に反旗を翻すことのないまま現境遇に甘んじる人間達もあるのだし、現状の暮らしにそれなりの幸せを見出す能力が高ければ、敢えて、未知の自由などに向かって命がけのジャンプを試みるなど、無謀だとの考え方もあるだろう。

 人間と蟻や蜂との違いは、それだけではない。カーストや家族構成よりも大きな違いが一つあって、それが「貨幣」だ。というのが今回のブログの内容となる。

資本主義を止める方法

 かつて、柄谷行人さんがどこかに書いていた。

「資本主義の運動を止めるのは簡単だ。全員が一斉に貨幣の使用を停止すればよい」

 これは、万人が納得できる方法だと思う。このとき重要なのは、「全員が」「一斉に」というところである。「少数」が「各自で」貨幣の使用を止めることは、トランプのババ抜きの逆のようなものだ。そしてそのような試みはすでにあらゆるところで行われている。

 一つは、篤志資本家による厚生事業である。その内部においては、無償奉仕が実現しているのだが、その外部との取引においては貨幣のやり取りが必要なため、膨大なストックをもつ資本家が肩代わりをしている、という図式。これは、資本家の税金対策と対外PRのために行われることが多い。

 もう一つは、内側にいる一人一人の人々がささやかに貨幣を集め、それを本部が吸い上げ、必要最低限の生活保障を、一人一人に還元するという、図式。こちらは、宗教団体などでよく採用される。必要最低限の保障に甘んじる信者たちの精神は、ある意味「ボランティア」にいそしむ人々と同様の多幸感を感じている。また、この「上位者に帰依する安心」という思考停止的多幸感を与えてこそ、搾取せる宗教団体の存在意義にほかならない。多くの彼らは幸せである。

 なお、後者のシステムから、「内部における貨幣を用いない自給自足的互助システム」と「帰依する安心による思考停止的多幸感」を取り除いた形式を、多くの「国家」が採用している。それが、搾取再分配の仕組みである。「福祉国家主義」「社会主義」である。(イスラーム圏についてはまたことなる「国家論」があることと思うので、今回のブログからは省く cf.『緑の資本論』)

 大多数の貨幣を使う社会と、少数散在の使わない社会とが出会うとその境界で、貨幣なき社会は暴力的に貨幣化されていく。なぜなら、資本主義にとって必要な「差異」がこれ以上大きな場所はないからだ。資本主義社会は低い所から高いところへ、薄いところから濃いところへと貨幣を吸い上げていく。その差が大きければ大きいほど、貨幣価値が高まる。これは主に、労働力を安価に買い上げることができることによる。そして、ひとたび貨幣に触れた村においては、あらゆる「間」で貨幣がその仲立ちを行い、コミュニティを貨幣に依存させていくのである。

LETと協同組合の取り組み

 こうした「貨幣」に対抗する運動として「限定通貨」と「協同組合」がある。だが、現状では、あくまでも「貨幣経済社会」の内部の「泡」のようなもので、かならず、RMTが発生する。

 以前書いたが、貨幣と交換せずにあらゆる品物を売買できるLETを、多種多様な団体間で共有していくことができれば、貨幣を使わない巨大コミュニティーは実現できる。このLETが十分に魅力的になれば、貨幣を使いきった後で、LETへ移行する人々が増えていくものと思われる。

 だが、国家は税収を確保するため、LETから徴税を行おうとするかもしれない。新たな貨幣が流通する多数のコミュニティーとは、ある意味で「国家圏」を形成するからだ。つまり、LETと協同組合とが進めていく運動は、柄谷さんが提唱するように、どうあっても「アナーキズム」なのであって、貨幣の駆逐とは、資本の解体を意味し、三位一体構造をなす国家と、ネーションとの解体をも同時に進めなければならない。

 ただし、LETはネーションブロックを形成する素地をもつ。

 LET間での貿易にかんしてレートなどが設定される場合、蓄財が無意味なLETが求める「相互利潤」が何になるのかの交渉はシビアである。それが、有限かつ不可欠な資源であった場合はとくにそうで、そこから、これまで以上の「統制選別社会」が生じる可能性もある。

 だが、このような「統制選別社会」は現在、貧富の格差によってすでに現実となっている。

貨幣なき諍いは強権を待望する

 かつて、サイバー的ではないディストピアとして、北斗の券や、マッドマックスの世界観があった。そこでは貨幣は無価値であり、その意味では貨幣なき社会を描いていて、暴力が支配する無法地帯と化している。

 そのような社会は映像的にも説得力がある。そこでは文化が荒廃しており、科学など無きがごとしである。そのような地域の治安を(一時的にであれ)回復する者として、さらなる力を保持するものが行脚するのであるが、それが、ケンシロウであり、水戸黄門なのであった。水戸黄門は「幕府」という後ろ盾がなければ、ただの爺だ。

 コミュニティーはならず者から構成員を保護するため、自警団を組織し、やがて資源を獲得するために周辺のコミュニティーと共同、もしくは略奪を起こし始めるだろう。

 たとえば、貨幣を揚棄した後に資源の奪い合いが起こったとすれば、民を保護する強大な権力が待望され、結果として「国家」が呼び起こされるだろう。そして、貨幣を棄てる前に資源の奪い合いが起こったとすれば、国家と企業とが、企業自身を守るために強権を発動するだろう。(国家は税収を求めるから)

 いづれにせよ、貨幣によって曇らされた目のまま貨幣を棄てたとしても結局はパワーゲームに逆戻りする。持てる者が持たざる者を支配する構図は、貨幣抜きでも、いや貨幣という仲立ちを失った結果、如実に表面化する。

 持たざる者は、公平分配を願い、持つものは、見返りを求める。それが貨幣ですんでいた時代はまだマシだった、という状況は容易に想定できる。

所有欲

 たとえば、貨幣が無くなれば、金銭目的の犯罪は消滅し、ほしい物を奪うという形式の犯罪ばかりになるだろう。限定品を所有したいという欲求。シェアではなく独占したいという欲求。「所有」という概念。これこそが、問題だ。

 「貨幣」への執着も、結局は「所有欲」である。「所有」とは自らが主体だということを確認する行為で、浪費家と吝嗇家とは実は常に自らが「主体」であることを、貨幣によって確認しているのである。一方は使うことにより、もう一方は集めることにより。

 このことから、「所有欲」とは「マナ識」の範疇に属するのだと思われる。自分が自分として在ることを確認しなければすまないという点で。そして本来、貨幣も、そのレベルに浮遊する記号であるはずだったのだが、現代社会においては「貨幣」こそが命のい「生殺与奪券」であるため、生命の存続を望む「アーラヤ識」のレベルを汚染してしまう。

 「寸志」として「貨幣」を送る行為と「食うため」に「強盗」する好意とは、同じアーラヤ識から生じる。これはいづれも「命」=「貨幣」という謬見による。貨幣はあらゆる物の間に介入し、すべての関係を間接的にしたが、その間接性があまりにも社会的であるがゆえに、「我=貨幣」という錯覚を招いている。

 

SDGs

 みんなでシェアする。という態度は、シェアするに足りる量の物があってこそ成り立つ。地球が養える人口には限りがあるのは分かりきっている。新資源の開発の現状は、コストや既得権益といった問題で頓挫している。

 資本主義は強制的に貧富の差を生じさせ、その財力の差がそのまま、資源分配の比率になるという仕組みによって、貧しい者から飢えていく構造が出来上がっている。

 現代社会においては、貨幣こそが人間の空気である。人間は貨幣で生きている。それは資源との交換価値によってそうなのであるが、それがあまりにも自明であるがゆえに貨幣そのものに価値があるように思われてくる、という指摘はあまたある。

 現実的に貨幣はそのような力を持っているのだから、この錯覚を払拭するのは難しい。想像力をもって、実際に詳細にシミュレートしてみるしかないだろう。

 貨幣を棄て、独占からシェアする社会にメンタルが変化していく道?

 それは、「蟻」や「蜂」のような社会性とはならないのか?

 人間は人間として「蟻」や「蜂」のようにすらなれないのか?

 これまで、貨幣で交換可能な資源が急速に失われ、代替資源やリサイクルはコスト高のため見送られている。

 今こそ、この状況に即したシステムを真摯に検証し、閉鎖環境である地球と膨大な人間とを加速度的に食い尽くす資本淘汰主義からの解放の契機とみなし、本当の意味での「SDGs」にむけた研究開発を、コストにとらわれずに行わねばならない。

おわりに

 資本主義によって富める者のみがトーナメント方式で生き延びるか、貨幣を棄て、戦いを回避しつつ、「慈悲」のメンタルを獲得するか。

 この考え方は選民思想や、ファシズムをも呼び起こしかねないが、そうした危険を回避してなお、新たな社会システムが要請されていると思う。そこに、「貨幣」は不要だ。