望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

『レンマ学』から始まるノート 1 ―言語眼鏡による転倒

はじめに

中沢新一さんの『レンマ学』は、とってもお得な一冊だ。なにしろこれは中沢さんの集大成の根本テキストなのだから。

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その中心には「華厳経」がある。まだぜんぜん途中までしか読んでいないが、私はこんな感想を書いた。

 中沢さんの集大成であり、いまもっともアクチュアルな大乗仏教の書ですね。
過去の著作のあらゆる成果がここに結実したのだなという興奮とともに読み進めております。
 なんといっても「華厳経」。私の一押し経典です。その詳細な解説でもあり華厳を通して哲学科学心理学を捕らえなおす仕事はただもう素晴らしい。
 私たちは、この書からまた始めることができるのだと思います。むろん、批評によって、ということです。
 まだ全部をよんでいるわけではありませんし、この書と井筒さんの著作とをリンクさせていく必要もあります。重要なのは、言語アーラヤ識という「メガネ」です。
 われわれは、言語によって意識を現前し、その厳然した意識からレンマ的無意識を反照させてとらえます。これはある意味で、遠近法の転倒というヘーゲル以来の伝統ではあるのですが、その褶曲と射程から「メガネ」無しの如来蔵」を浮き上がらせることができるのではないかと。そんな風な予感があります。

「知性とは相即相入する流動性そのものである」

 粘菌から始まる、人間型脳とは異なる位相にある「知識」の探求は、頭足動物の「タコ」にいたって私の興奮は最高潮に達した。粘菌もタコも流動性を体現する生き物であり、臨機応変、変幻自在。まさに「君子豹変す」を地でいく「拘らない拘り」に生きる一派だ。

 「流動性」とは、アンチコスモスのデーモニッシュな奔流、そもそもアーラヤ識こそは「暴流」と表現されていたのだから、どうあっても存在とは「流体」の変化にほかならない。液体的か気体的かは棚上げしておいて。

 「流動性」というからには「動態論」の範疇である。動態は静止状態を研究しても無意味であり、部分を取り出して研究することもまた、無意味だ。「動き」は因果でとらえられない。バタフライエフェクトなるものも、膨大な変数の全てが明らかになれば確実に予測可能である、とのマックスウェルの悪魔論は、言語よりもさらに抽象性が高いがゆえに、数学とレンマ的意識との通道によって、一見、OKを出せそうではあるが、やはり「意識」からの逆照射による発見であることは否めない。

 言語(ロゴス+メタファーとメニトミー)よりも抽象性が高いとは、数式は縁起システムに似た動きを表せるから、と理解している。だから、言語を数学的にとらえなおすことで、よりレンマ的意識を表しうる言語体系を作り出せるのかもしれない。

AIはロゴス的知のみを取り出す

 数学と言語といえば、コンピューター言語(プログラム言語)を思いつく。だが、コンピュータープログラムは経時的に因果を追っていく仕組みをもっているため、「知」の中でも「ロゴス的」側面のみに特化しているのだという。だからAIでは、「レンマ的知」の法(ダルマ)である「縁起」を捉えられない。

 数学なら可能性があるのに、プログラムでは不可能。というあたりがいまひとつ飲み込み辛いところではある。たとえば、縁起的知を捉え得るプログラム言語は可能なのか? 

 そう思って読み進めると、問題点は、言語か数字か(注:プログラムにとっては数字も言語だし、論理学にとっては言語は数式)ではなく、それらによってダイナミックに変化しつづける「意識」の有無にあるのだと読めてくる。「意識と無意識と、無ー意識、そしてそれ以外」という四種類の「知性」が混在する器官が必要なのである。

人間の心にあっては、ロゴス的知性と、レンマ的知性は、アーラヤ識をとおして同時生起する。

意識と無意識

 我々は「意識ー無意識」を混在させている。この、「意識ー無意識」と「意識」と認識しうる。つまり、この「無意識」とは「意識されていない意識」として、「意識」の形成に影響を与えている。(フロイトユングラカン

 私は体内に無数の囁きが常時吹き荒れているのだと以前に読んだ本(『脳と心の地形図』リタ・カーター」)の比喩を採用している。このことは、最近読んだ本(『感情とはそもそも何なのか』乾敏郎)に通じており、その他の「脳」関係の内容とも矛盾しない。また、タコの脳(身体に広く分布したニューロン)を説明するうえでも、有用であると考える。

 これらの囁きのなかで、大きな声となったものが「意識」される、それが「意識」であり、意識されないものが無意識である。これらが「囁き」であることは重要だ。なぜならば、「無意識は言語のように構造化」されているというラカンの言葉は、このことを示しているからだ。(だから、「声」はひじょうに重要なテーマとなる)

 このとき、大きな声となるかどうかは、「脳内モデル」を変革する度合いによって決定される。無論、この「脳内モデル」とは、ロゴス的に構築されているが、体内の無数の囁きの影響は(多数決的かつ経験論的に)直感を刺激するだろう。(cf.『そもそも感情とは何か』)これは、部分的注意による感覚ではなく、全体的知見によるのであってレンマ的機構に近い。

 では、言語を持たない生物に意識はないのか? 昆虫やタコや魚やヒトデには? レンマ的知性の象徴たる粘菌には? となると「意識」とは何か? というところから定義しなければならない。

 本書で引用している『タコの心身問題』は読んでは見たが、引用箇所以外に採るべき箇所はなかった。だが、どうもタコには意識があるとみなしてよさそうだ。(なぜならタコにはヒトが好奇心を満たすために行うような行為と同じことをしているとしか説明できない行動をするから!)

 私は「声」のようなものは、あらゆる生命に在る。と考える。それがヒトの場合は「声」と喩えて、実感上もシステム上も違和感のない性質を備えているから「声」と喩えるのである。だから、イヌ、ハチドリ、アリ、タコ、ナメクジ、粘菌、などの意識を「声」と喩えて違和感があるとすれば、あくまでも暫定的な「声」の比喩にひっぱられすぎているのだと、今は了解するしかない。

機械状無意識(ガタリ

「無意識は言語のように構造化されている」そして、その「無意識」ですらない、「無ー意識」はどうか?

 「無ー意識」という述語は、井筒さんの本に出ていたものだと記憶している。(『意識の形而上学』)「意識なるものが存在していない状態。顕在か潜在かではなく、そもそも「意識が無い」状態であり、それを本書では「レンマ的無意識」と呼ぶ。それは、「ある種の機械である。感情バイアスも働かないし、主観的な思い込みによる偏倚も作用しない」という。

 逆にいえば「意識(+無意識)」の「主観的感情と思い込み」が届かないところでは、ロゴス(経時的因果立)は働かず、純粋レンマ知性(如来蔵)の法(ダルマ)である、共時的縁起が発動している、ということだ。

 この純粋レンマ知性が分節されると「ロゴス」が発動する。その状態を「アーラヤ識」と呼ぶ。

 なぜ、「分節されるのか」については本書でも(というかそもそも仏典がそれを)語っていない。

 その如来蔵が転形して、アーラヤ識と呼ばれるものがつくりだされる。仏典は転用の起こる理由をしめさない。

ただ、(フロイトの快楽原則に即して)

 法界には「界」の閉鎖性を壊して自在な力の行き来(相入)をつくりだそうとする、「無碍」への根源的欲動が内蔵されているのである。

というのみである。この「根源的欲動」が起こるのは、「界」が分節された以後のことだというのは注意が必要だ。分節されたことの反動。そもそも動きなどなかった水槽の水が波が立って部分が生じる。つまり密度に濃淡が生じると濃から淡へむけての、すさまじい流れが生じ、その濃淡を平準化しようするのではないか。それは機械的な動きにが「存在」であり、そこの生じる渦が「物」である。

 この流れの発生を「時間の侵入」と本書では呼んでいる。つまり、因果関係、線形的秩序の発生である。

転倒

 私はこの「時間の侵入」という表現に引っかかる。これだと、アーラヤ識とは別に、時間なるものが存在していたと読めるからだ。私は「時間」というなんらかの単体があって、それが出入りできるものと認識することができなかった。

 本書は、原初の「空」+時間→現在へ至る。という線形的秩序を、きちんと遡って説明を行っている。つまり、本書の構造そのものが(逆ベクトルとはいえ)線形的でありロゴス的なのである。時折、その線形を戻ったり進んだりしながら「対称的」に説明記述を行うことで、もしかしたらリゾーム的、曼荼羅的構造をもたせようと試みているのかもしれないのだが、「時間」も「言語」も「意識」も「脳」も「在る」状態から、それがどのように組成しているのかを解明しつつ、それとは異なる知性として「レンマ的知性」を説明するのである。この方法は、循環参照スレスレのアクロバットでもある。

 「如来蔵」とは、「ロゴス的意識」から捉えた「空」である。

 「アーラヤ識はロゴス的知性とレンマ的知性を同時に発生させる」

 「純粋なレンマ意識が如来蔵である」

 「如来蔵に時間が侵入するとアーラヤ意識が生じる」

 

 私は、「時間」とは「分節による隔たりによって生じた部分間変異の変化の度合い」であると定義する。これを、ロゴス的知で捉えるとき「時間」という概念が生じるのだと。ここでは、「分節」というイメージを「時間」と言い切ることで、簡素化したのかなとも思うのだが、これと同じような感覚を、私は「進化説」をかいた本などでよく感じるのだ。それはあまりにも「現在の状況」を前提としすぎている。このことは、本書における「言語」においても、そうである。

言語眼鏡

 井筒さんの「言語アーラヤ識」、中沢さんの「ロゴスを強化し+レンマを呼び込む言語」はともに、如来蔵と意識との「通道」として示されている。

 我々はいったん「言語」によってロゴス的意識によってレンマを離れたかに思わせて、じつは「言語」自体に「レンマ」を呼び込むしくみが備わっていた。なぜなら、それは言語を自在に(喩えの体系)として用いるにいたった脳そのものに、レンマ的知性が流れ込んでいるからだ。だから、「言語意識」からロゴスへ向かうAIへの道のほかに、レンマへ向かう道が示されなければならないのだ。そのとき、ロゴスこそが、知のガラパゴスであり、レンマこそが広大な海なのだということが分かる。ロゴスの高みに登らねば、レンマの広さは体得できないのだ。

 という感じである。

我々は、言語という眼鏡を通して、レンマを覗き込んでいる。全員が、密教や禅の修行をおこなえる状況ではないのだから、ロゴスによってレンマを説明してもらえることはたいへんにありがたいのだが、それはやはり偏向があるものと考えなけばならない。

さいごに

 我々は、粘菌には戻れないし、粘菌は自らがそのような知に即していることを意識することはないのだろう。

ともあれ、私はまだこの本を読み始めたばかりだし、本書から始めることができるのは、ひじょうに幸運な喜ばしいことだと思っている。引き続き読み進めながらノートを書いていき、動態論と渦説と唯物論とを合わせた「私的華厳」が見出せればよいと思う。