はじめに
ある小説を書こうとしていることは、以前述べた。そしてそのために、デリダの『盲者の記憶』から『触覚、』に激突(しかし私に「激突」に足る「重さ、または密度」を保持し得ほどの「渦」が継続していただろうか?)したと思った相手の中の人は、ほとんど、『謎の男トマ』だった。
唯物論が観念につきぬけるとき、比喩は唯物的であるか
読み進めるのはひじょうに困難だった。その印象は徹底的観念的な記述な何かを召還する呪文のようだったが、ほどなくその印象こそがページを埋め尽くす活字群のもたらす観念に他ならないことに気づかされた。書かれてあることは、すべて唯物的であり、唯物的比喩だったからだ。そこでは思考までもが、肢体、姿態、死体と同じく「モノ」として記述されていた。徹底的な写実が抽象へつきぬけてしまうように、本書の徹底した唯物的記述が「観念」へつきぬけていた。それは、「モノならざるモノ」を「モノ」として確定記述する「比喩」の「モノ」性を「モノならざるモノ」の「存在」が包み込んでしまうからだ。
比喩は必ず、既知の唯物的でなければならない。だが、比喩される「モノならざるモノ」は、その既知の唯物的範疇を食い破っていく。
欲望とはその同じ屍体のことを、両方の目を開けて、自分が死んでいるとしるや、まるで生きながら呑みこまれた動物のように、愚かにも口のなかまで這いあがってくるその同じ屍体のことだった(同書)
だがまさにこの「モノならざるモノ」であると観念していた「モノならざるモノ」もまた「モノの性状」という限界内にとどまることによってのみ「モノの器官の機関」としてのみ在ることができ、それを唯物的に記述したその記述が纏ってしまう「観念性」とは「モノ」と「モノならざるモノ」との関係性に発生するものではなく、「モノならざるモノ」と観念する「言語アーラヤ識」において発生する余剰すなわち「夢」、因果律構造外部の構造(縁起)の謂いである。
まだ花に心のこすか蝶の夢 正岡子規
溶け合う同一のモノが分裂し溶け合うとき、自分自身は破壊される
モノが「空性」なのは自性不能だからだが、我々は「モノ」として存在しておりしたがって「唯物論」のみが「空性」に触れ得る唯一の態度であって、それは必ず自己言及となるだろう。空性のモノは相入相即の重々無尽だからだ。トマはそれを『怪物じみた消化』と比喩した。
自分の抱えている体(いかなる人間的感覚、いかなる人間的表現も到達できなければ、明るみに出すこともできない接近不可能なアンヌ、深く秘め隠された身体)を消化している「怪物じみた消化」(同書)
この世界の物理的法則は「同じ時間に同じ場所を複数のモノが占めることはできない」から、マクロ的観点からそのような位置を占めるとするならば、「食うー食われる」か「寄生するーされる」もしくは「受胎」によるより他ないのである。「モノ」はその食い合うモノが自分と同一のモノであると気づかないまま食い合い、寄生しあい、交合しあっている。
私がどうしても溶け合いたいと願っていたこのすばらしい随伴者は、一体誰だったのか(同書)
それを「自分自身だ」と示すことはできない。「モノ」は自性不可でありながら隔てられていて、その隔てた境界を限られた方法で破ったときにだけ互いは互いに接触することが可能となり、そのとき初めて極めて不完全ながらも相入相即を掠めそのときに「自分自身」は食い合った相手以外の全存在者に対して開かれているのだから、「自分自身」という限界は失われているからである。だから、事前もしくは事後にのみ、この疑問は有効となり、この疑問が有効であるということは、この疑問は無意味だということを意味している。
『死んでいる者は起きろ』(ジャック・ペリヤール)
彼は実際に死んでいたのだが、同時に死の現実性から遠ざけられていた。死そのものの中に存在していながら、彼は死を欠いていた。彼はぞっとするほど無化した人間で、彼自身の像(イマージュ)によって(中略)無の中に引きとどめられていた。(同書)
彼女は自分の曖昧な姿を最後の息のように吐き出し、完全に透明になって死んでいたが、彼女の隣にはあの不透明な死者がおり、彼女のそばでますます肥大化していくのが感じられた。(同書)
人は彼にこれ以上ないほど鋭い眼差しをあてがい異常なほど洗練された感覚を与ええたが、それは彼が無感覚な状態、死の状態にありながら生の中を進んでいることに気付いても、それを自分の諸器官の不完全さのせいにできないようにするためだった。(同書)
彼と彼女の死は私自身の死に近似する。それは、私が彼でもあり彼女でもある過程の一つにすぎなかった死こそが自性不可能なモノを統合する渦の本質だからだ。
死ぬことは彼女にとって無に肉体を与えるための策略だったからである。すべてが破壊されていた瞬間に、彼女はもっとも困難なものを創造した。無から何かを引き出したのではなく――それはつまらない行為だ――、無に、無のかたちは保ったまま、何かの形を与えたのだ。(同書)
多様な生があるのではない。多様な死だけがあり、その死の多様性とは死の渦への「死」の巻き込まれ具合の多様性である。そして、この死と、死によりあつまってしまった死とは互いに全く無関係であり、かつ死が渦の緩慢さによる他死への分解にあるいじょう、「存在する私」もまた「死の関係性において生じるた私」であるよりほかなくその「私」を生じせしめた死は「私」とは全く無関係な死なのであった。
もちろん私は死ぬことができた。しかし、断末魔の苦しみがどれほどのものであれ、私は死とは完全に無縁な死、不可能な死によって死んでゆくのだ。(同書)
眼は残らない。耳が残る。おわりに
ブランショは、トマにおいて密教者が語るような死後の魂の遍歴をビジョンとして示し、それがモナド的ビジョンであったことから、ほとんど華厳宗の認識なのであった。
このブログでは、本書における「触覚」や「言葉」などのテーマは省略しているが、どこを拾っても、組めども尽きぬ源泉となることは疑いのないところである。
『謎の男トマ』はラスト(とはいえ、この小説に「ラスト」などという部分があることはまた奇跡と思われるのだが、そのラスト)において、トマの言説は、空を見上げ涙を流しているような詠嘆調となる。それはまるで『限りなく透明に近いブルー』の、タイトルを主人公がモノログするシーンのように感動的である。
唯物的記述は、ほとんどが視覚的記述である。世界認識の八割を担う視覚偏重主義と、身体感覚との融合を、言語という夢の装置を駆使して試みてきた本書は、とうとう「声」にとってかわられるのである。
その「声」とはすなわち「耳」なのである。
マイクとスピーカーとが、全く同じ構造をもつこと。鼓膜と声帯の機構。話すことは聞くことであり、聞くことが話すことであるような身体を、密教的にとらえていかねばならないのではないかとの備忘録として、このブログを締める。
人が死んで、いろいろな感覚がなくなっても、耳の働きは最後まで残っている。死といわれる状態に入っても、死者の耳はまわりの音を感じる。『三万年の死の教え』中沢新一