望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

キュビズム律俳句とは ―自由律俳句への自由なアプローチと助詞

はじめに

偶然出会った荻原井泉水さん関係のブログの中に、自由律俳句とは、随句とは、短詩とは、という内容がとても明快かつ詳細に書かれていた。

yahantei.blogspot.com

の中の、この記事である。とても有難い。今日、これからしっかりと勉強しようと思っている。

yahantei.blogspot.com

このすばらしいブログに出会えたのは、私が以下のような検索語によって検索をかけたからだった。

検索語:井泉水 椅子 砂 星

この検索語の意図は、家に置いてきてしまった「新潮文庫版 井泉水句集」に収録されていた、この句を引用したかったからだ。

星が出てくる砂にソーダ水の椅子 

荻原井泉水 前掲書 p.145 昭和六年 ゆけむり集 ×由井が濱)

そして、この「油井が濱」という傍題の6句はすべて、「すごい」と思った。

夜風、昔からある鞠の藝見てゐる

影は月の影で灯の影でベビイゴルフ

金魚の中にかくれた金魚すくはうとする

テントのスクリインのぞいて行かう天の川

軒並秋風たちたるさまの射的の女達

 この中で、とくに「星が出てくる―」「影は月の影で―」の二句に、私は「キュビズム」を感じたのだった。

※「金魚の中に」の句は、「すくはうとする」という能動性を保留すれば素十さん好みかなと思う。また「軒並み」の句は、碧梧桐さんが趣を感じそうだ。

キュビズム

 ピカソの「泣く女」である。

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ピカソ 「泣く女(1937)」

そして、ディヴッド・ホックニーである。

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GREGORY READING IN KYOTO

井泉水さんの句ができるまでの勝手な解釈

キュビズムだと思ったのは、

「星が出てくる砂にソーダ水の椅子」

という一連の句は、どのような情景があれば得られるのだろうかと、考えたときだった。

(暮れ行く夏の夜空に星が見えて(出て)きた砂浜に置き去りの椅子の上にソーダ水が置いてあった)

 もしくは、

砂丘越しに夜の星が見えてきた椅子でソーダ水を飲んでいる)

という景色なら、句の要素は揃うのではないかと。

 この散文的情景を、いったんバラバラに切り離してコラージュしたものが、

「星が出てくる砂にソーダ水の椅子」

という自由律俳句になったのだと仮定した。

 実際に井泉水さんが、由井が浜でどのように過ごしたのかは、もはや関係がない。私はこの句をよい写生句だと思い、どのような目でありふれた情景から句を拾えばよいのか、という方法論を模索していたのであり、この句法には可能性があると思ったからだ。

乱暴な界面

 互いに異なる色を併置する際、つい両者を撫で付けて「馴染ませ」ようとしてしまうものだ。あまりに隔たった色が衝突していると、なんだか絵として統合できていないような気がするからだ。

 だが、そのような「撫で付け」こそが、色を殺し、絵を陳腐にする。シュールレアリズムにおける「手術台の上でのミシンと雨傘との出会い」や、俳句における「二物衝撃」とは、「取り合わせ」の効果を最大限に発揮させるべく、双方を「暈す」などということはしない。

 異なる複数物の衝突による効果。それは「世俗諦」を離れるために有用なショックでる。

散文的風景

 われわれが見る景色がなぜ散文的なのか? それは、われわれの脳内モデルが「経時的因果」による線形モデルによって構築されており、そのモデルに従ってわれわれは景色を再構築しているからである。

 それは「構文」において端的に現れる。常人の脳は、景色を文章のように捉えてしまう。キュビズムとは、経時的認識の拘束から離脱する方法論であった。そして、俳句にはもともと、そうした機構が備わっていた。「二句一章」の形式である。

 先述したyahantei様のブログを一読して、自由律俳句の自由とは、五・七・五の文字数と、季語から「自由」であるという意味であって、俳句が備えていた機構そのものを逸脱してもよい、という自由では、本来なかったのだと思った。(このあたりは、きちんと読ませていただいた後で、考えを改めるかもしれないところだ。「二句一章の三音節」について、私はおおいに勉強しなければならないと考えている)

 無論、それでなければ「俳句」と呼ぶ理由が不明になってしまう。それで、「短詩」や「随句」といった新形式も提唱されているわけであるが、あくまでもここでは、「自由律俳句」である。

界面にある「助詞」

 散文的形式を散文的に記述した

砂丘越しに夜の星が見えてきた椅子でソーダ水を飲んでいる)

をどのように切り刻むか? 名詞を並べただけでは写生句とは呼べない。(無論、名詞だけで成立する風景もある)名詞には助詞がひっついている。この「助詞」こそが二物の界面に因果という暈しを入れる擦筆に他ならない。

 二物衝撃においては、ぶっきらぼうに並べ置くのが一法だろう。だが、井泉水さんは「名詞+助詞」をパーツとし、景色を構成するのに最低限度のパーツ以外を省略した上で、その後に続くパーツを入れ替えることによって、助詞を宙ぶらりんにしたり、因果関係を破綻させたりする「起爆剤」もしくは「癌」として用いた。

砂丘越しに・夜の・星が見えてきた・椅子で・ソーダ水を・飲んでいる

星が見えてきた椅子でソーダ

星が見えてきた → 星が出てきた →星が出てくる

砂丘越しに → 砂の向こうに → 砂に

(この椅子は)ソーダ水を飲む椅子 → ソーダ水の椅子

「星が出てくる砂にソーダ水の椅子」

(星が出てくる)(砂)という二物。

ソーダ水)の(椅子)という二物。そして、

(星が出てくる砂)と(ソーダ水の椅子)という二物が、「に」によって衝突する。

「星が出てくる砂にソーダ水の椅子」

時系列をもコラージュする

 この句では、情景のみが再構築されているのだが、ここに時間経過をも切り刻んで「共時的」風景を再構築することも試みられているはずだ。

キュビズム律俳句試作

ギター二台並べ置き斜交いに小さな秋

寝覚めは暗い朝のカーテン分け隔つまでの眼鏡

折れさふなほど雨上がった朝の枝にこれほどの雨滴(しづく)

ランチの暗いランプシェードの下、ビュッフェ鮮やかな窓辺はトマト

(試作句 六文風鈴)

おわりに

 今回は、井泉水さんが、散文脳による景色の時系列因果を破壊し、それで本来ある自然の輝きを取り戻したいと考えて、キュビズムに範を採ったのだ。などと主張するつもりは、毛頭なく、自身が自由律俳句を作ろうとするときに、このような方法論を用いれば何かおもしろいものができるのではないかと思った、というブログだ。