望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

窃視0度の触角 ―ジャック・デリダ『触覚、』からモーリス・ブランショ『謎の男トマ』への序説

今回のブログに先立ち、私はいかなる性犯罪にも肯定すべきところはまったく無いものと否定し、断罪する立場にあることをあらかじめ表明します。

はじめに

2月5日
デリダ『触覚、』読んでたらブランショ『謎の男トマ』読まねばと思う。引用だけでもうたまらない。
 
『触覚、』という書籍とは衝突事故だった。むしろ私はジャック・デリダさんの『盲者の記憶』を、その日は図書館に借り受けに出かけた待ち時間に、「ふと」見かけただけで。
「触覚」は重要だった。「見ること」と「触れること」は私の原点だ。人間がエロスの塊であるのだとしたら、私という回転体はこの「見ること」と「触れること」という二つの中心点をもった楕円軌道そのものだといえる。だがしかし、その運動エネルギーには常に、何かが欠落していた。欠落しているが故に私は楕円軌道に留まっているのだという、キレの悪さを生きていると、感じていた。
 だから書いた。楕円軌道に縦方向の軸を導入する、弛まぬ偏心を続けるらせん状の縦軸を貫くもの。それが「書く」であった。
(……)あなたがたの見たのは幻だったのだ。さあ、神に感謝を捧げなさい。というのも、私は私をお遣わしになった方のところへ昇っていくのだから。あなたがたの身に起こったこれらすべてのことを書き記しなさい(トビト書 12章20節) 『盲者の記憶』より

読むべき本『楕円形の肖像』エドガー・アラン・ポー

身体

2月6日 
未だかつて自らが一度も触れたことのない身体の部分が必ずあり、それは他者には容易に触れることができ、または触れることを許可された他者のみが、その限りにおいて、時に、その許可範囲を事故的に越境して触れることが容易である部分であるのなら、その部分の所有権は誰にあるか。
また、その自らが触れえない身体の部分は、常に触れられたがり、帰属を求めているのか。常に触れられる部分の皮膚との連続性を信じないその部分は、主人の愛撫を、隷属を求めているか。それを求めているものこそ、触れえない身体の部分という不完全さに怯えるこの自らではなかったのか。
 
 夏目漱石さんの『草枕』に、床屋に頭をいいように掻き毟られて、「この頭の所有権は誰にあるのか」と考えるシーンがあって以来、この「させられ感」とマゾヒズムとの関連について考えることが時折あって、自らの身体を他人にいいように支配される快感というものはあるのではないかと思うのだ。それは「暴力による支配」に「屈服」させられる「快楽」であり、自らの身体に自らの触れ得ない方法で触れられたその部位は、自らが触れるのとは違って「触れられる」ことへの不安と「触れられる」安寧に震えるだろう。
 それが性的悦びに直結する快楽を供給するためでない「暴力(身体の強引に明け渡すよう仕向けられる行為)」であったときの、「悦楽」の原因を、蹂躙される我が身体器官に見出すとき、それは背徳感を伴い、ますます悦楽を高めていく。
 手順どおりに進められる自信たっぷりで無感情な技師の手指が、その悦楽の鉱脈を確実になぞり、自らの触れえなかった快楽を掘り出していく時の、自我が溶け出す感覚については、村上春樹さんの『ねじまき鳥クロニクル』に詳しい。
 ただし、他者の蹂躙によって「完全な快楽」を得た経験が、自らの欠落を露呈させられ、それを自覚させられ、その欠落はむしろ、あの時溶け出した自我の幾許かだったのであるから、今のこの私が抱えている大きな欠落した部分を奪った者こそが、あの技師なのであった。とパラフレーズされる点には、留意が必要だ。なぜなら、
「経験とはつねに、その名の示す通り、限界を超えて旅することだ(『盲者の記憶』p.69)」
からであり、あらゆる経験が自らの悦楽の「欠落(穴)」を発見することに他ならないからである。
 チーズのような身体。それは種々の微生物によって変性させられて匂いたつ、という点で、まさに身体そのものである。それを愛撫する指、および舌は、その身体を如実に実感する。それは凝視以上の凝視であると同時に、全体性を度外視した凝視であり、それゆえ、片時も休むことはない。だが凝視も同じように、点から点を次々と移動することによって全体像をツギハギする不完全な行為ではなかっただろうか?
私たちは表面にしか触れることができない。言いかえれば限界のない皮膚あるいは皮膜にしか触れることしかできない。触れることは限界に達することがないか、永遠に限界を侵犯し続けるかのいいずれかである。(『触覚、』p.20)

フェテイッシュ

2月8日
覗き」と「痴漢」。 ただ「視る」こと と、ただ「触れる」こと
 ジャック・デリダさんの問題意識もまた、その両者の間にある。私にとってもそれは欠かせない二つの中心であって、その楕円に縦方向の軸を与えるものが「死」であり「仏教」であるというところを再認識したしだいです。「覗き」と「痴漢」。 ただ「視る」こと と、ただ「触れる」こと
接触は「あいだ」の死なのか。(『触覚、』p.14)
われわれの目が触れ合うときは「昼か夜か」(同書p.13) 
「触れる」ことと「見ること」との最大の違いは「対象性の破れの有無」にある。「触れる」ことは必ず「触れられること」でもあり、その能動性と受動性の区別は「意図の有無」のみにある。
唯一例外的な「触れる」、つまり「触れるー触れられる」の対称性が敗れる場合が「昏睡中の身体へ触れること」である。
 痴漢行為は、相手の拒絶を受け入れないことによって、相手を「拒絶するモノ」として捕らえ、自らが触れることで相手の欠落を補填し、それによって触れている自分の欠落を補填しようとする行為だ。存在しない相手の快楽を、自らの快楽に共感させることで、自らの快楽を引き出す、共感なき偽共感。相手の拒絶は「悦楽の背徳感」ととらえ、現行犯逮捕されるまで、開いては自分の快楽そのものであり、その夢は終わらないだろう。この非対照的な転移が、意識ある身体に対する痴漢行為を性犯罪たらしめているのだと思う。つまり、「決して触れ得ないもの」に「触れている」との妄執にとらわれた浅はかさに対する罪を犯しているのだ。
欲望とはその同じ屍体のこと、両方の目を開けて自分が死んでいると知るや、まるで生きながら呑みこまれた動物のように、愚かにも口のなかまで這い上がってくるその同じ屍体のことだった。(『謎の男トマ』より)
 そして、フェティッシュとは、自らが見出した「エロスの補完不能な欠落」を埋めてくれるはずと短絡した「モノ」への飢えである。「拒絶するモノの意思そのものがが厭われる」方向性が「拒絶を拒絶することを厭う」傾向へ向かえば、より弱いものへ、また、「拒絶そのものを厭う」傾向へ向かえば人形や死体へと向かうだろう。 
 
 想起すべき小説として『眠れる美女川端康成? ただしそこから「老化」を省いた場合に何が残るであろうか。むしろ、江戸川乱歩人間椅子』および『屋根裏の散歩者』た教示的だ。
 
 一方。「意識なき身体に触れる」こと。夜這い。泥酔後の合意なき合意。薬物による意識剥奪後のそれは「窃視」に少しだけ似ている。
 ただし、相手から意図的に意識を奪っている点、相手の身体に接触の痕跡が如実に残される点は大きく異なっており、それは絶対に埋まらない溝である。
 
 これらの行為が複数の刑法および条例違反となる根拠は、先述したとおり、これらが根源的には「暴力」であり、個人の尊厳を蹂躙する働きかけであることに起因すると考える。しかも、この「暴力」は、受動的立場の精神が感じ得たかもしれない、背徳的悦楽をも禁じている。(無論のこと、私は、いかなるレイプも肯定しないし、そこに「快楽」という論点持ち込むことも拒否する。だが、こうしたレイプ的構造が一般的なコミュニケーションを構成していることは否定できない。その区切りとは、拒否に従うこと。契約を結ぶこと。意思を尊重すること。に尽きる)
 だが、こうした意思を、拒絶の意思を、言下に却下する暴力に快楽を感じる人間は存在し、それは権力に関係する。権力は弱者に意思を認めない。それもまた根源的には暴力である。
 
 また、満員電車での意図せざる密着も、「窃視」にもう少しだけ似ている。こちらは、見るもの(触れるもの)が見よう(触れよう)という能動的意思を持っているか否かの違いと、双方が双方の存在を認識している、という二つの点で「窃視」および「痴漢」とは区分される。
 意思を奪われていることと、意図せざる行為であること。つまり、問題となるのはやはり「意思」なのである。
 
 「触れる」「見る」をコミュニケーション手段としては用いない能動者の能動的意思だけが、純粋に「ただ」見、「ただ」触れる、行為を遂行できるはずだったのだが、「ただ」触れる、などという行為は事実上不可能である。なぜなら、「触れる」行為は「相互作用的」だからだ。つまり「ただ見る」「ただ見られる」ことは可能だが、「ただ触れる」「ただ触れられる」ことは不可能なのである。
 「触れる」には「触れられる立場にある意思の許諾」が必要だ。そして、その許諾なしで可能な行為は「見る」ことのみである。(もちろん、嗅ぐ。聴く。もまた可能である。では、見るとの差異はどこにあるのか? それはまた別のお話で)

触れずに触れること

 法に触れる。という用法について、『触覚、』の考え方はとても示唆的だった。
『おそらく法はつねに接触についてのものである(『触覚、』p.134)
触れる、という述語は、目に―、怒りに―、心に―、など、さまざまな事物の状態を示すことができる。それは「見える」には及ばないかもしれないが、「聞く」や「嗅ぐ」よりも広範であると思う。
『(……)限界の現前化の特異な仕方は、この限界が触れられるようになることである。方向を変えなければならない。視覚から触覚に移行しなければならない。(ジャンリュックナンシー 『触覚、』より)
私もこの移行に賛成する。しかし、それは視覚においてまず移行するものであると考える。触覚はあまりも触覚でありすぎるからだ。だからこそ、私はまず、視覚の触覚化、眼球の触角化に着手したのであった。
われわれは、互いに[われわれに]触れる限りで根源に触れる。われわれは実存する限りで互いに触れる。互いに触れることが、われわれを「われわれ」にしているものなのであり、この触れることこそそれ自体の背後に、其の実存の「共に」の背後に、それ以外の発見すべきあるいは隠すべき秘密があるわけではない。そしてそれ以外の何が「文学」と「芸術」において、その他の「諸芸術」において、われわれの関心を惹き、われわれに触れるだろうか。(……)重要なのは(……)隔てられた根源への、その隔たり自体にかけるアクセスであり、特異的な根源への複数的な接触である。(ジャン・リュックナンシー『複数にして単数の存在』『触覚、』より)

おわりに

私がどうしても溶け合いたいと願っていたこのすばらしい随伴者は、一体誰だったのか
(『謎の男トマ』より)
 
2月15日
多分、ブランショには密教が足りない。(続く)