望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

接続詞 ―「間」にある主観

はじめに

 自明のこと。だが、自明、だからこそ、それを抜きにし、ては、伝わらないことが。

 むしろ、「接続詞」だけが、私を構成しているといえる、ので、はないか?

接続詞は記号に擬態した感嘆詞である

 さらに、また、感嘆符(!)ですらある。

 繰り返す、が、これは自明である。

 接続詞、さらに接続助詞。これらを論理記号に置き換えてみ、ても、文、と、文との間にあり、それが、両者の関係性を決定する性質をもつ、のであれば、それは、疑う余地、も、なく「主観」なのだ。

 接続詞を含まない「連文」はプレーン、などではなく、ある文は他の文に対して潜在的に、それはつまり、顕在的に、ということ、でも、ある、のだが、主従、もしくは、並列の関係性を、予め規定されている。ならば、接続詞とは文と文との生来的な関係の符号にすぎないのだろうか。

 文は、常に先行する、あるいは、後続する文との関係性を宿命付けられている。それを脱するのが「俳句の切れ、および自由律俳句」だが、それは、また、別の話で。だから、「文」は常に「文脈(コンテキスト)」の部分として予め埋葬されており、また、掘り当てられ、発掘され続けるのだ。

接続詞はコンパスである

 コンテキストは広大、かつ、限定的だ。

 我々には足元から掘り進めるしか手立てがない。文脈の山脈から空想上の羽を疑わずに命がけのジャンプを試み、そうして、山脈が表層に生じた複雑、で、錯綜した、些細な「皺」でしかないことを発見するものが「詩」である、が、それは、また別の話で。

 手掛かりとなるのは、先行する「文」だ。

 「文」は必ずそれを読む者を読み、 、読まれること、で、読む者になんらかの態度を迫る、その「迫り」が、実は足元に存在などしない「文脈」という目の粗い、スカスカの、網でしかない「言語山脈、もしくは意味山脈」に「堅牢さ」と「洞窟」とをもたらす、のだが、掘り進む我々は「堅牢さ」の「もろい」部分を侵食していくより手立てがない。

 そこで、「接続詞」である。

 元来、堅牢な岩盤などは存在しない。

 先行する文が我々に迫るのは「堅牢さ」に挑むこと、などではなく、「堅牢な部分に隠れた脆さ」という正解を『接続詞』によって、堀りあてたと信じさせることによって、存在しない「堅牢さ」をネガティブに「実証」してみせることに他ならない。

 脆弱な部分を掘り当てる。のではない。堅牢な部分などない、という真実を隠蔽する、そのコンパスとなるもの、こそが、「接続詞」なのである。

接続詞は既成事実を既成事実化する

 だから、自明だ、と繰り返すのだ。

 接続詞、や、接続助詞でない「語素(それは、文字でもなく、言葉でもなく、音節でもなく、ましてや文にはほど遠い文であり、文法と呼ぶには単純すぎる、あらゆる言葉=名前に含まれている『接続』という性質)」はない。

 文はあらかじめ先行する文との関係性において生じ、それは後続する文の確率的自由を制限する。

 それを、「文脈」というひとつらなりの山塊に擬態させるもの。既成事実に、ありもしない堅牢性と崇高さとを幻視せしめるもの。それが「接続詞」である。

接続詞は私である

 私たちはなぜ、接続詞を用いるのか? それは私たち自身が、接続詞のようにしか「在りえない」からではないのか。

 接続詞は判断の表明である。

 人間とは、「であるがしかし」と「であるがゆえに」の間で「であったとしたならば」を問い続ける「符号」である。