望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

自由律俳句の歩き方 ―十重唯識と花鳥諷詠

はじめに

 自由律俳句は、作るのに資格がいると思う。

 その資格がない人間が作ったものは、単なる短文であり、珍文奇文だ。もちろん、それらの中には、一言ネタとしてはおもしろいものも多いし、「すごい」と思うものも少なくはない。私は、この「すごい」と思う短文は、自由律俳句だね、と言ってしまう。

 そのような「すごい」短文が書けた時点で、その人は自由律俳句を作る資格を有していたと思うからだ。

 私は自由律俳句を作らない。自由律俳句風の短文は作る。だが俳句にはならない。

俳句とは

 「有季定形」が俳句の条件である。

 高浜虚子さんはこれをドグマとした。だからこそ、人々はこぞって俳句を作ることができる。だが、よい俳句を作るのは難しい。正岡子規さんは写生を提唱し、高浜虚子さんはそれを徹底して「花鳥諷詠」を掲げた。

 俳句とは「花鳥諷詠」である。

 元来、主観の人であった高浜虚子さんが「主客合一」の「花鳥諷詠」に至った境地を跡付ける研究は他を参照していただくとして、私はこの「花鳥諷詠」は狭小すぎるきらいはあっても、理念として掲げるに足る姿勢であると思う。

 この狭小さに反発して、無季非定形の機運が高まり。自由律が生まれる。おおまかにはそう見える。

花鳥諷詠とは

 高浜虚子さんの「写生」論「客観」論は、「花鳥諷詠」を旗印とし、それは本居宣長の「もののあはれ」の心情を含む。理論化すれば、西田幾太郎さんの哲学となるが、私は、もう少しわかりやすい華厳経の「十重唯識」に真髄を見る。

十重唯識

八~十 円教の境地
意識の問題も完全に消えさると同時に、理体さえもが消失し現実に存在する事象やここに現に悩んでいる人間の心の現実のみが問題とされ、それらの個別な事象の「融通無礙」が説かれる。(「仏教の思想6 無限の世界観〈華厳〉 角川文庫)

 以前に石原八束さんの俳句論について書いたときも取り上げたが、客観とは他人の主観であり、主観とは自己の客観である、といった(だったろうか?)問題意識も、この十重唯識には入ってくる。

mochizuki.hatenablog.jp

 季語定型句と自由律俳句とを繋ぐもの

 十重唯識は、「花鳥諷詠」の境地だが、同時に、自由律俳句もここからしか生じない。

 なぜなら、「俳句」であろうとする限り、そこには「俳句」と共通する「景色」がなければならず、その唯一の解は「十重唯識」にしかないからである。

有季定形とは

 「有季定形」における「季語」とは、有る意味で「仏」の名前である。それは信心を受け止めるだけの強度を持つ帰依の対象としてある。

 また、「定型」とは、修行の方便であると考えられる。「十重唯心」では「型」は消えなければならないからだ。

 日々の俳句作りの中で、「有季定型」を自らの身体とし呼吸と為すまで、「型」窮屈な作為であり続けるだろう。それが修行である。


自由律俳句とは

 自由律俳句は、季語定型という「身体(方便)」を出離する。

 そこでは、「境地」がすべてである。

 自らの短文が「俳句」であるためには、「華厳経」による菩薩業を生きねばならない。私が冒頭にいった「資格」とはこのことである。

「語業」と「意業」とを離れた「不立文字」の境地を往還しなければ、自由律俳句はたんに散文でしかない。

 「山がある」という認識が、禅僧の往還した視線からはまったく異なる景色となることは、井筒俊彦さんの本に詳しい。だから、自由律俳句を作るのは禅僧であり、禅僧は自由律俳句しか言う言葉を持たないのである。したがって、禅の公案もまた、自由律俳句なのである。

おわりに

自由律俳句は歩いている。
定型俳句は立ち止まる。
短歌は流れされていく。

 私は原則的にこのように考えている。

 これらは詩であるから、世界や存在の真実に触れる手立てとしてあらねばならない。

 自由律俳句は性急さのためでもなく、心情の垂れ流しが許されているためでもなく、全ての仮像を離れた存在の「空」を見てきた者が、文字ならぬ文字、意味ならぬ意味を書き付けた経典なのである。