望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

誤字脱字の無表情さ ―脳内細菌としての文字

はじめに

 私の書くものには「誤字脱字変換ミス」が非常に多い。それは、書くときも読むときも、一文字一文字を見ているわけではないからだ。一文字毎に引っかかっていては、「意味・文脈」を捉えることが困難になる。だが、それに気づいたときにはとても恥ずかしいし、その場違いさに腹立ちもする。今回はそんな話だ。

有名なコピペ文

 「一文字ずつの並び」によって「意味」を生成する「記号」としての「文字」は、「一文字」ずつでは意味をなさないが、その一文字ずつを制度上適切に並べれば「意味」を生成するこができる。

 一方、我々は、「一文字ずつの適切な並び方」の「見本」を、習慣的訓練によって脳ストックしており、最初と最後の文字だったり、アナグラム的な文字の連なりなどは、自動的に、近似する「文字の並び」をレファレンスして、意味を読み取ることができる。それによって「さっと読めば読めるが、一文字ずつみていくと間違いだらけの文」というものが成立しうるのだと思う。

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完全黙読能力者の矛盾

 しかし、この「配列ミス」の文の意味が取れるのは、暗い星が、凝視すると見えなくなり、ぼんやりと見れば見えるようになるという、視覚器官の機構によるものとは意味が異なっており、例えば、完全黙読者(文字を画像として捉える者)と、擬似黙読者(発話なき発語によって読む者)とでは、知覚認識方法に違いがあるのではないかと思う。

 私は、黙読時も脳内で音声変換を必要とする擬似黙読者だ。私がこのコピペ文を、(擬似)黙読する場合、読み進むことに「もどかしいような違和」を感じる。完全黙読者であれば、こうした違和を感じることなく読み進むことができるのではないだろうか? 逆にいえば、完全黙読訓練のためには、このような「制度的ユニット毎記号認識練習」は有効なのではないかと思われる。

ameblo.jp

 このことは、もし、このコピペ文が音読されていた場合に、果たして意味をつかむことができるかどうか、という問題点の裏返しでもある。(誤字脱字チェックのため音読するというのは、そのまた裏返しであろう)

 とまれ、完全黙読者は、制度上誤った並びの文字列を「意味」をもつ「正しい文字列」として捕らえがち、なのではないかと思うのだ。そのとき、この「制度を逸脱した文字列」も「意味」という制度上見慣れた景色として、認識されるであろう。

ところで、この「コピペ文」を音読しようとするとき、単なる出鱈目な文字の羅列文の音読にくらべて、明らかな「もどかしさ(障害)」を感じる。これは、発話と文字と意味との関連において、看過できない問題点であるような気がする。しかし、これについては別に機会をもうけたい。今回は「文字という記号」だけで、手一杯だ。

今回の「文法」の定義

 「文書を読む」とは、「文章」という「文字単位」の「制度的配列」を「解読」しているということだ。「文字」とは「記号」であり、「制度的配列」とは「文法」であり「暗号生成と解読」の「鍵」である。

 ところで、「文字の並び」によって名指しされる「物」があり、それは「名前」と呼ばれている(名詞も動詞も形容詞も、ある事物、状態についての「名前」とみなす)が、それと「記号としての文字の並べ方の記号」との関係性は「恣意的」である。この「恣意性」についても、今回は広義の「文法」として括ってしまおうと思う。問題なのは、「記号としての文字」の「並べ方」であり、それを規定するすべての制度上の法則は、古今東西の発生展開的必然性があったからといっても、結局のところは、「恣意的」だからである。

booklog.kinokuniya.co.jp

文法規範

 私が不思議でならないのは、「文(詩、散文を問わず)」によって、換言すれが「文字制度」によって、この世界を表すことができる、という希望的信頼が、ほぼ全人類的に共有されているという事実である。

 人は「言葉」で想いを伝え、「意思」を伝え、「環境」を伝え、「境遇」を伝え、「夢・空想」を伝え、「理想」を伝え、「科学・技術」を伝え、「生死」を伝える。

 それを可能にさせるのが「文法」である。人々は「記号としての文字の連なり」を「言語(母語)」とすべく、「文法」の習得に勤める。それはまず、話し言葉として、私たちの前に現れる。母親から口移しされるかのように、母語を噛んで含められ、歯も生えそろわないうちに咀嚼するよう強制され、「感情、意思、歴史、時間」を「言語」化させていく。その過程で何が起こっているのかは、いくつか記事にも書いたし、多くの参照すべき研究がある。文法はこの世に存在するために、欠かせない必須習熟用件なのである。

 私は最近、この「文法」が「支配権力構造」そのものであるように思われいる。

脳内細菌としての言語

 文字は文法を整備することによってシステムとなる。そのシステムは、更新に更新をかさねて肥大していき、ところどころに破綻を来たしながらも、その根幹的使命だけは保持し続けている。それは人にとって、「意味を意味すること」に他ならない。

 元来は恣意的であったものが、「便利」というだけで長期間広範囲にわたって使用されることで、もはやそれ無しでは生活ができないのではないかと思われるほど、当たり前になり、今ではその是非を問われることもなく、代々伝えられていく。

 「文字」は「記号」というにはあまりにも柔軟であり多様であり有用だった。文字と共存するために、人々は文字がつかさどる「意味」を「駆使」するための機能である「脳」を、進化させさえした。

 私は「文字」を「寄生虫」と過程することに魅了されているところだ。それは「言語」と言い換えることもでき、無論、発語による言葉こそがその端緒なのではあるが、存在体として、人間という個体の寿命を超えて長期間存在可能となる形態としての「文字」を獲得したことの影響力ははかりしれないものと思う。「文字」とは「言語」があらゆる脳に寄生するための増殖形態に他ならない。

 人間の腸内に多くの腸内細菌が存在するように、人間の脳内には多くの文字細菌が存在する。文字細菌は脳によって文法という構造を与えられ、時代を超えて種を伝えていくメリットを享受し、人間には「この世界」を与えたのである。

wired.jp

擬態する文字

 文字は制度によって、人間の内外のあらゆるものに擬態し、その風景や感情を他に伝える。この世界が、実際にはどのようにあるのかなど、もはや不明だ。我々は言葉によって世界を語りあり、文字によって世界を紡いでいくのだ。世界がこのようであり、世界はこのようであると認識し、世界はこのようであると伝える「文」。

 だから、あらゆるものは「文学」の範疇に属する。人間が文字に寄生され、文字に中毒して文法至上主義となり、文法の違いによって敵味方の線引きさえする。

 神の「言葉」と人が言うとき、それは「神」という「文字」の「言葉」に過ぎないのではないか。青い空。白い雲。不倫は文化。世界平和への願い。原発反対。これらすべては「文字」が我々に認識させている「毒」の作用なのではないのだろうか。

journal.chitose-bio.com

誤字脱字の手触り

 「文字」は「文法」により「記号」であることを「糊塗」し「あらゆるもの」に「擬態」して、人間の認識のい全てを「糊塗」する。

 この「文字」(そのもの)とは、いったいどのような存在なのであろうか?

 それは、文法を剥奪された文字。記号であることすら許されない状態の文字。そのようなものが不意に我々の前にあらわれたとき、マトリクスにおける世界のバグ、うる星やつらビユーティフルドリーマーにおける夢邪気が製作している途中の数々夢の大道具の舞台裏、平滑にうたれた長大なトンネル内部に突如として突き出たゴツゴツした瓦礫の一片、または、風景にぽっかりと空いた空虚、ふわふわのパンケーキに混じっていた自分のものではない乳歯、温かな寝具のなかの冷たいゴロリとしたじゃがいものごとき屍。その、無限に不気味な手触りにもっとも近いものは「死」である。

 そしてそのような「文字の屍」は、あんがい頻繁に我々の前に露呈される。

 それが、誤字脱字 なのだ。誤字脱字に出会ったときの肌触り。嫌な感じ。だまされたような、興ざめなような、それはもう文字というよりも、意味のない嫌味な見たくもない、胸糞悪い、馬鹿馬鹿しい、記号ですらない異物。

 誤字脱字こそがそれだ。そして誤字脱字こそが、我々が支配されたがり、我々を支配すべく我々がこしらえ、我々が嬉々として支配されることによってこの世界を存続させられるのだと信じこまされるより他ない「言葉」の本質なのだ。

 幼いころ母親から口移しされた脳内細菌に抗うこと。それはルーツを捨てることに等しく、地球を捨てることに相当し、命を捨てることに近似する。だから、うまくたちまわらねがならない。

誤字脱字による制度革命を、最近の私は、考えているところである。

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