望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

物証とアリバイ ―13号独房 再び

13号独房の問題アゲイン

 ヴァン=ドゥーゼン博士は、13号独房を監視するモニター画面に、映っている。が同時に、テレビ画面には生放送で、ハッチンソン記者にインタビューを受けている、ヴァン=ドゥーゼン博士が映し出されている。

 所長は部下に指示を出す。13号独房と、テレビ局の双方に確認を取れと。数分後、独房を確認した部下から無電が入る。

「博士は13号独房で、ベッドの下の鼠と格闘しています」

さらに、数分後、テレビ局に向かった部下から電話が入る。

「博士はハッチンソン記者に、博士にしか解けないような純粋に論理的な問題について論じている最中です」

 所長は、わけがわからなくなる。

「博士は、13号独房から脱獄したわけではないからして、われわれは賭けに負けたわけではないはずだ。だが、独房の外に博士がいる以上は、われわれは、博士に負けたということになるわけか……」

 所長はいてもたってもいられず、13号独房へ走る。そこには、背伸びをして窓の鉄格子を擦っている博士が、たしかにいる。

「博士。今テレビに出ているのは、誰ですっ!」

 所長が怒鳴りつける。だが、博士はあわててポケットに何かを隠し「何をいっておるのか意味がわからんね」

と、怒鳴り返してきた。所長は、看守に、博士がポケットに隠した金属製のスプーンを没収するように告げ、自分も独房に入り、博士が擦っていた鉄格子を検分した。

「少し、ピカピカになりましたよ」

博士は悔しそうに唸って、ベッドに飛び乗ると、壁を向いて毛布をかぶってしまった。所長は、そんなみすぼらしい博士を見下ろした。

「博士。あなたはここにいる。でも、同時にテレビ局のスタジオにもいるという。こんなことはまったく不可能だっ!」

 その言葉に博士が猛然と起き上がる。

「不可能だと? そんな言い方には我慢がならない。私が13号独房におり、かつテレビ局のスタジオにもいることはできないということを、証明した者があったのかねっ!」

 所長は、その勢いに気圧されて

「いやその、ありそうもないことだと、思うのですが…」と恐縮してしまう。 

 博士はその訂正を快く受け入れた様子で、靴を磨き始めた。真っ白だったリネンの切れが、靴墨でみるみる汚れていった…

「おい。この白い布は、どうした?」

 所長は青い顔で看守に尋ねる。博士が13号独房に収監される際、白いシャツからグレイの囚人服に着替えさせていたからだ。看守は首を捻る。その白い布地は、そこにいる誰の服のものとも異なっていたからだ。

「博士、その布はどうやって手にいれたのですか?」

「それを調べるのは君らの仕事だろう」

 博士は取り付くシマがない。結果、独房を総点検し、オーダーメードのスリーピースが三着と、ビーフストロガノフのレトルトパック、ホテルの便箋と封筒に万年筆のセットと、テレビ局の入館証が出てきたのだった…

アリバイとは

 アリバイとは、移動の限界に依拠している。同一人物が同一時間に違う場所に存在することはできない。というのがそれで、いかに犯罪現場に残された物証が、当人を示していたとしても、同時刻に当人が他所にいたとの証明ができれば、容疑者から外れることになるのだ。

 現場に残っているのは「物証」で、アリバイを証明するのは「本人」がいたという、客観的な情報である。「本人」の全てを捏造するよりも、「現場の物証」を捏造するほうが、簡単だ、という思い込みが、両者の不均衡を招いているように思う。

 アリバイを証明する場合、有力なのは「防犯カメラ」と「証言」だろう。指紋、唾液、DNAなどについては、アリバイの裏取りが、犯行から時間が経っている関係上、難しいと思う。グラスなどは洗ってしまうし、掃除したりしてしまう。

 アリバイとは「似た人がいた」という程度のものにすぎないのである。それが、現場に残された捏造困難な物証に対抗しうるというのは、犯人側にワンチャンあることを、期待させはしないか。

技術の限界

 西村京太郎さんの作品を私は読んだことはないが、時刻表トリックとは、制限時間内での移動に関する裏技のことだと思う。東京大阪間に7時間かかっていた時代と、2時間程度の現代とでは、アリバイ工作はより困難になってきていると思う。

 また、ドラえもんの、どこでもドアがあれば、アリバイには何の意味も持たないだろうし、一卵性双生児であることを隠し通しておれば、同一時間に他地点に出没することは可能である。(指紋については、手袋をしておけばいい。犯人は、自らが有利となる物証のみを残すよう、最新の準備を行うべきである)

 物証は諸刃の剣である。が、そもそもなぜ、物証に頼らねばならないのだろうか。

死角

 犯行の様子がカメラに写っており、そこから立ち去る犯人の姿も死角なく追跡可能であったとしたら、あらゆる物証もアリバイも心理的障壁も、まったく関係がない。その男のもとへ捜査班が訪れ、権利を読み上げ逮捕するまでの一連が、死角なく防犯カメラに写っていれば、謎はどこにもないからである。

 つまり、推理など不要だ。推理小説なぞ成り立たない。全ては、コロンボのように倒叙式の犯罪となり、ただ防犯カメラにしたがって犯人が現在いる場所までたどればそれで終わりである。警察犬もいらないし、科学捜査も不要だ。

 死角があるから、物証が必要となり、物証の解釈が必要となる。そしてその解釈に、誤りが入る隙が生じるのだ。

アイデンティティ

 アリバイとは、アイデンティティーの証明問題である。それは、クイズのように検証されるだろう。「あの時あそこにいたのがあなただと、証明できますか? 」と。

 多くは本人の外観を、その場にいた人たちの記憶によって証明させるしかない。体から離せる全てものは、他人が入手可能なものであり、つまりは代理可能なのだから。では、外観はどうか? 外観だって、「似た人」を使えば十分に誤魔化せるかもしれない。だいたい、人は人を大してちゃんと見ているわけではないし、似た人というのはいるものだからだ。

同じ人が二人いても

 その場合、その似た人を「共犯者」として捕まえて証言させれば、アリバイは崩れる。仮に、共犯者が「本人である」と主張したところで、本人が二人いた、という事実を、検察は重要視しないだろう。ようは、アリバイさえ崩れれば、実行犯を特定できるからである。

 それは、刑事訴訟法とは無関係の問題です。ということになるはずだ。完全黙秘を貫いて、名無しのまま起訴され判決を得る人もいるのだから。

 だが、もしかしたらこじれるかもしれない。

 同じ人間が二人いたとする。どちらのDNA型も、指紋までもが、現場の物証と一致した場合、この二人のうち、どちらが実行犯であったのかを決めるのは、自白だけとなるだろう。

 実行犯と目されていた方が、遠くのバーの客だったのかもしれない。アリバイ証言は、その可能性を否定できない。互いが互いに罪を主張する場合も、逆の場合も、そして、一方が犯行を自供した場合でも、「物証」によっても「アリバイ」によっても特定することはできない。つまり、合理的な疑いが残る、ということになる。

 指紋もDNA型も同じで顔も背格好も似ている人間が共謀すれば、「同一人物が同一時間他所にいることができない」という物理法則を、やすやすと超えることができるのである。(ま、そもそもそういった物証を残さないにこしたことはないのだが、物証によってアリバイを強固にする、という下心としておこう)

死角なき追跡

 防犯カメラによって、地球上から数ミリの死角も無くして、移動追跡に死角をなくすこと。また、肉体の移動をともなわない、つまり意思の疎通については、通信傍受を完璧に行う仕組みを整えること。

 これだけで、物証もアリバイも、推理も不要になる。たとえ、同じ人間が複数いても関係がない。

 ただ、唯一の問題は、渋谷などの大勢の中でもみ合っているうちに、誰かが殺された、といった状況下の場合だ。群集の中にこそ死角が生じる。それが、通り魔であった場合、カメラや盗聴での犯人特定は困難かもしれない。

再び、13号独房 再び

 所長は苦悶していた。目の前のモニターには、二人のヴァン=ドゥーゼン博士が映し出されていた。そして、その両方を、所長自らが、同時に確認することは、不可能だった。

 テレビ局のヴァン=ドゥーゼン博士には、放送後この刑務所へご足労願うことになっている。所長は、独房にいるヴァン=ドゥーゼン博士と対面させてみるつもりだった。

「人間は論理的思考力のみで、肉体を脱獄させることも可能だ」

 そんな博士の挑発に乗った形で、今回の実験は始まったのである。その場で博士を独房へ収監し、囚人と同じように扱ってきたのだが、博士は、まるで空中元素固定装置でも持っているかのように、中空からあらゆるものを取り出して、あざ笑うかのようにわれわれに示してきた。

「科学は理論を証明するものだ。そして現実とは科学の成果なのだからして、現実とは理論の現実化にほかならない」

 博士はそのようにわれわれを煙に巻き続けた。

 

「たとえば、所長が見ておられる私はモニターに映る私であるにすぎなかった。一方のモニターには13号独房が、もう一方のモニターにはテレビ局が映っていた」

 テレビ局からハッチ君に付き添われてやってきた、モーニング姿の博士と、真っ白なスリーピースに着替えて独房から現れた博士と、所長との四人は、夕食のテーブルを囲んでいた。

「ともかく、期限ぴったりに、私はこのように所長と夕食を共にしているわけですからして、私の主張は証明されたということになりますな」

 白いスリーピースの博士がにんまりと笑う。博士のそんな表情を所長はこれまで見たことがなかった。

「カメラ越しということは、映像に介入するフェーズがある、ということですな。それは理論ではなく、純粋に技術的な問題です」

 とモーニング姿の博士が冷たく言い放つ。

「ですが、実際に独房を確認した者も、テレビ局へやった者も、博士を肉眼で確認しておりましたから」

 と所長がいうと、モーニングの博士が苛立つような声で反論した。

「彼らは、買収される可能性だったありますぞ。そのような間接的な事象から結論を類推する場合、科学では非常に厳密なスキームを構築しておく必要があります。所長は、そのような準備をしておられなかった。ゆえに、彼らの証言に信憑性はないのですよ」

「ま、いいじゃありませんか。博士、13号独房より再び脱獄す! これで一面はいただきです」

 とハッチ君は上機嫌でワインを煽る。

「で、博士。いったい本物はどちらなんで…」

 所長がおずおずと尋ねた。スリーピースの博士が、眉間をピクピクさせた。

「理論ですよ。理論。1+1は、つねに2になるのです。時々とか、ことによると、というのではなく、常にです」

「そして、2-1は常に1なのだ」

 モーニングの博士が突然そう言って立ち上がり、スリーピースの博士の口に金属製の筒を押し当てた。スリーピース博士は苦しそうにしていたが、やがて静かになり、その筒のなかに吸い込まれてしまった。

 所長は目の前で起きた事件に、しばし呆然としていたが、やがて職業的使命を奮い立たせていった。

「ヴァン=ドゥーゼン博士。あなたを殺人容疑で逮捕します」

 ハッチ記者はあわてて部屋を飛び出していった。翌朝の記事の差し替えのため、印刷を止めなければならない。

ヴァン=ドゥーゼン博士は、平然と座ったまま、ワインを飲んでいた。

「私は物証を残さない。ミスをしない。また、たとえ独房へ収監されたとしても、二度あることは三度ある、ということを証明するだけでしょうな。所長」

 殺害に使われた凶器は、どうやっても真空掃除機であるとの結果しか表さなかったし、吸い込まれたはずの死体は、跡形もなかった。なによりも、博士が殺したのが博士だったと訴えるのは、所長の証言のみなのであった。

 事件など、そもそもなくなり、翌朝の新聞の一面は、刑務所所長の自殺記事だったのであった。(完)