はじめに
どうも。卒業発表後、自信に溢れる飯窪さんが、少し苦手な私です。ソロで活動していく上では、絶対に必要なものですから、そのように「自分」を前面に発信していく姿勢は全く正しいのですが、それが私には、眩しすぎるのだと思います。さぁて、それでは今回のブログでも始めましょうかね。
『豊饒の海』の創作ノート
著名人のノートを見たい! と図書検索をしていて、三島由紀夫さんの作品の中で一番好きなこの作品の創作ノートがあると知り、これはぜひ見たい。と。
本としてまとまったものとして、
『決定版 三島由紀夫全集14』(新潮社)と、
『三島由紀夫 幻の遺作を読む もう一つの『豊饒の海』井上隆史 光文社新書 2010.11.20 がありました。
この井上さんが、三島由紀夫研究の重鎮のようで、件の『創作ノート』の研究の中枢にいらっしゃるらしく、『全集』の方の「創作ノート」の項は、井上さんが中心にまとめられているようでした。(著者略歴や、資料などを読み飛ばしているので、伝聞形式で)
井上さんによると、この本執筆時点で、創作ノートは23冊が確認されており、主要なページについては、活字に起こされて上記二冊に記載されています(『全集には、少しだけノートの写真も!)し、それ以外のページも、どっかの全集的な巻に毎号挟まっている簡単なパンフレット的なやつに記載されているらしいのですが、全集を片っ端から借り出すのも手間なので、そちらは諦めました。
とこのあたりの話は、実は今回どうでもよくて、問題とするのは
『三島由紀夫 幻の遺作を読む もう一つの『豊饒の海』についてなのです。
難解な唯識論
上記の著作の大半を、井上さんは「唯識論」のガイドにさいています。それは、三島さんが『豊饒の海』における「転生(この作品における主人公の転生を、私は、あえて輪廻とは呼びません)」を「唯物論」によって裏打ちしようとしていたことを踏まえ、「幻の遺作」を井上さん自身が創作しようという場合の指針として、自らも、抑えておきたかったためでした。
井上さん自身が創作?
私は三島さんの「ノートの写真」のみに興味があったため、この本の目的がそこにあると知ってからは、せめて「ノートの写真」が図版として入っていないかと、そればかりを探してページをめくり続けました。(一点もありませんでした)
唯識論は難しい。三島さんがその唯識論をどのように理解し、作中にどのように取り入れたのかを抑えること。井上さんの情熱はそこに注ぎ込まれていました。唯識論理解に悩み、作品の大きな方向転換に影響を及ぼし、結果、作品そのものを「無」に帰してしまう道具立てとなった仏教の世界観。
三島さんが、このように『豊饒の海』を閉じたことが、実は三島さんの、社会に対する、日本国に対する「憂い」「絶望」を表していたのではないかというところにまで、井上さんの考察は及びます。
そして、どちらかというと「アンハッピーエンド」に終わった決定稿ではなく、当初計画されていた「幸魂に導かれた大団円」の物語(それは、本田にとってのハッピーエンド(解脱)だったそうです)を、作ってしまえ、という意図のもと、本書は書かれています。
お疲れ様です。といいたいです。
理屈としての唯識論
ことあるごとに引用する爆笑問題太田さんの、ウディ・アレンさんの映画についての言葉でしたか…
『映画で難しいことを言っている時は、難しい、ってことが重要なだけで、それがどんな内容なのかは、知っていればそれなりに楽しめるようにもなっているけれども、絶対にそれがわからないといけないというものではない』(うろ覚え)
が、今回の唯識論にも当てはまると私は思っています。そもそも、『豊饒の海』での主人公の転生は、唯識論における輪廻とは、全く異なっていると思いますし、唯識論そのものが、「分別」に過ぎないと思うからです。
それらしいオーソライズされた理屈をもってこなければ、「転生」が御伽噺の絵空事になってしまうから、小難しい理屈を用意したのにすぎません。
物語作家三島さん
三島由紀夫さんは、物語作家です。三島さんが、本気で、仏教の唯識論に縋り、しかも、その難解な理論にアップアップしていたとでも? もしそれが本当でも、物語作家三島由紀夫を、そのように矮小化するのは、おもしろくないと、私は思ってしまいます。
荒俣宏さんが、帝都物語で三島由紀夫さんを「閻王」「魔王」として登場させた(うろ覚えの意訳的方便とご理解ください)ほうが、よっぽどスケールが大きいし、『豊饒の海』は、山田風太郎さんの『柳生十兵衛死す」と同じくらい面白いのです。
物語作家が、長々と書き継いできた一大長編を、「そもそもなんにもなかったんじゃね」とぶっくら返すラストの、アンチ物語感こそが、全巻を読みとおした私に、カタルシスを与えるわけです。それは異世界タイムトラベル物のライトノベル的快感に似ているのです。唯識論? なんか難しい、それっぽい理屈。それでOKです。
だいたい、物語において主人公が転生を繰り返すなんて設定は、唯識論とかを持ち出すまでも無く、「ハイハイ、転生物ね!」と受け入れる素地は読者にはあるのです。三島さんは、箔をつけたかったのですね、きっと。脇の下の三角のほくろ、とか言ってる時点で、唯識論なんてただの飾りにすぎないわけです。そのディレッタントを楽しめばよいのです。
幻の遺作?
夏目漱石さん『明暗』は未完でした。中上健次さん『異族』も未完でした。『明暗』は続編が書かれていたようです。『異族』は誰か、書いてますか?興味深いですね。
そして『豊饒の海』これは、完結していますね。幻の遺作? それはなんのことでしょうか?
創作ノートに出てくる、「案」の一つ。それは、作者自身がボツにした案です。それは、かなり綿密に検討されたところで、「なんか違う。なんか足りない」と放擲されたものでした。
井上さんは、執筆当時書かれた他の作品や、インタビュー、創作ノートの記述を丁寧に読み取って、つぎはぎして、井上さんにとっての「幻の遺作」をパッチワークしていました。(私はそれを読んでいませんが…)
しかし、井上さん自身が最後の方で書いているように、三島由紀夫さんが第三部に苦しみ、第四部で構成をガラリと変えたのは、「時代性」が色濃く影を落としていたのだという点に、完全に同意します。三島さんは、同時代から近未来を想定して第四部を発表し、ああいう最期を遂げました。
『豊饒の海』第四巻(幻の第五巻)を書き直すということは、その「時代」そのものを書き直すことに他なりません。というか、日米問題とか若者と日本の問題とか、自衛隊の問題とか、そういった時代にまず if をつきつけ、それらを整理した上で、三島由紀夫さんが、当初の構成の通りのハッピーエンド版を発表できた社会の方を、示してもらいたかったと、思います。
あ、井上さんには『「もう一つの日本」を求めて:三島由紀夫『豊饒の海』を読み直す』という著作もありますね。もしかしたら、今の私の愚見は、こちらでしっかりと考察されていたのかもしれません。そうだとしたら、失礼いたしました。
その際、映画版Zガンダムが、富野由悠季氏自身の手によってラストを改変し、時代へのメッセージとしたことに、私ががっかりした、という事例からもお分かりのように、本人によるセルフリメイクですら、こうした有様となる場合があるのですから、他人が、三島由紀夫さんの、しかも「捨てた」案にそって物語を作ることなどできるはずはないと思うのです。それはある意味、創作者の冒涜にもあたるんじゃないかな、なんて過激なことをいってみたくもなりますが、そこまでいうのはやめます。が、文章としては残ってしまいますね。あたかも、「ウソウソ、今のなし」と出川さんバリにお願いしたところで、オンエアされてしまうという……どうも、すいません。
研究者としては、やってみたくなることかもしれませんけれども、それは読まなくてもいいなと、私は思いました。
さいごに
ノートの写真集が出版されたらいいのにと思います。研究者の方ばかりが楽しめるのはズルいです。肉筆のノートに書かれている、熱、煩悶、疑問、直情、を感じることができるのは、やはり肉筆原稿であり、肉筆ノートなのだと思います。
そしてまた、著名人のノートを求めて、検索を繰り返すのでした。