望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

マゾヒストはイメージに隷属しない ―『なんとなくクリスタル』という唯物論

はじめに

 で、『なんとなくクリスタル』だ。40年も昔の本を今読むなんて、とってもレトロスペクティブとか思うかもだけど、我々バックスキッパーズとしては温故知新だなんてつもりは毛頭ないわけ。

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 当時は、「カタログ」だとか「TOKYO Walker」だとか「Hot-Dog PRESS」だとか揶揄されて、まさに「軽薄短小」「イメージの戯れ」中味のない薄っぺらな、ノーテンキなだけの、読む意味のない本だ、みたいな扱われ方をしていたわけですよ。

 売れに売れたけど、だからこそ、無能批評家は真っ青んなって、全否定したし、この世代そのものを嘆いたものでしたともさ。バカみたいね。

 バブルを越えて、不景気にあえぐ、少子化問題が具現化した今だからこそ、この本には読む価値があるのだと、コワダカに主張するのも疲れるワサ。

固有名はイメージか

 この本には、夥しい量の固有名が氾濫している。いや、氾濫じゃないな。きちんとしてるからな… ま、ほとんど固有名しか記されていない。だから、現在のネット環境があればリアルタイムに体験することだって可能だ。442の後注だって、QRコードでリンク貼れば、アフィリエイトし放題だね。

 イメージの戯れ? 冗談じゃない。固有名とは紛れもない「物」なのですよ。「主体」とか「自我」とかいってるほうが、よっぽどイメージレベルで戯れているだけのオママゴトだって私なんか思いますけどね。

 ここまで的確で逃げの無い描写を実現している小説が、ほかにありますか? 新聞記事だって、もって抽象的ですよ。

 『なんとなく』だなんて、言ってますけど、この本に「なんとなく」なんて漠然としたものは、ただ一つしかありませんよ。それは、「エクスタシー(キャッ♡)」。そして、主人公が実感する男女の圧倒的な違いこそが、この「エクスタシー」なのですが、それは、おいといて。

圧倒的描写

 以前、村上龍さんが蓮實重彥さんとの対談で、「クロームの鍋で水が沸騰する場面を、愚鈍に描写してみたんだ」なんて自慢してたけど、『なんとなくクリスタル』においては、全編がまさにこれ「描写」なんですからね。

 街並みも、料理も、ヘアメイクも、セックスも、全て均質な「描写」。だから、HOW TOモンだとか、カタログだとか言われてるんだけど、分かってないね。だって、これは小説だもの。1980年の東京にある気分を、しっかりとつかんでいるんだもの。

 もう、描写しかしてない。つまり、曖昧な比喩とか、一般論なんかはこれっぽっちも含まれていない(エクスタシー以外は)んです。そういう、安易なイメージしか扱えないのが、有象無象の駄目男たちでね。彼らは、ホテル名だったり、ブランド名だったりという「物」そのものを、「イメージ」に還元して、勃起したりしてるわけだ。で、『心はあなたのもとに」になるんだね。あれ、『なんとなくクリスタル』の最悪な形でのアンサーノベルになってるんだな。それからすれば『今、浮遊感覚』のほうが、まだ救いようがあるわけ。あれは、男が駄目だって、自覚してるから。なよってるから。マッチョ気取りは、本当にもう、不快だね。

唯物論なの

 何度も言うけど、『なんとなくクリスタル』はね、徹底的に事物を描写するの。主人公が「なんとなく」な気分を表現するのだって、徹底的に固有名で説明するんだな。

『野菜や肉を買うなら、青山の紀伊国屋がいいし~バッグだって、なるべくルイ・ヴィトンだけは避けたかった。」というpp.31-39まで9ページに渡って記述される主人公のバランス感覚。

「こうしたバランス感覚をもったうえで、私は生活を楽しんでみたかった。同じものを買うのなら、気分がいい方を選んでみたかった。主体性がないわけではない。別にどちらでもよいのでもない。選ぶ方は最初から決まっていた。ただ肩ひじ張って選ぶことをしたくないだけだった。無意識のうちに、なんとなく気分のいい方を選んでみると、今の私の生活になっていく」(pp.39-40)

「本音ギャルは、深層心理がCMで出来ている」(『ブッダの方舟』)なぁんて、それはそう見えるのかもしれないけど、コンプレックスはそれなりに強かったりするんで、そういうのは不可能なわけでして。なんとなくクリスタルは、全然「なんとなく」なんかではないのだ。

帰属と所属

 それは、資本主義による欲望の創出にのせられているに過ぎない。と、言われるムキもあるであろう。それに答えるのならば「Why not ?」である。

 彼女は裕福な親からの仕送りは貯金して、モデルの月収40万円を消費しているし、彼のほうは、名の知れたキーボード奏者だ。二人は同居しているが、「神田川的貧乏くささ」を嫌悪しているし、同棲ではなく共棲という言い方で、二人をとらえている。

 彼女自身、「自立とは経済的自立」にほかならず、それを実現できなければ、彼に帰属することになるのだと分かっている。彼女は仕事をし、明確な趣味を持ち、それを実現するだけの経済力があるから、互いに束縛のない、自由な、つまり純粋な愛の形をも実現できるのだ。

 彼女はこれを「彼に所属している」と捉える。なぜ、「属する」という部分を拭えないのか? それは、彼が彼女に「エクスタシー」を与えることができる唯一の男だったからであり、彼女はそれ(彼)を失うことを恐れるからである。

 ふう。

 馬鹿じゃないんだな、全然。そして今しか見えていないわけでもない。

 でも、「老後」なんてまだ全然遠くて、今なんとかなってるんだから、そん時はそん時じゃないか、なんて気楽さだってあるんだ、これ若さだよね。だからこれは、ルポルタージュ風青春小説の王道であるわけ。

 徹底した固有名によって「気分」を表すなんて、資本主義の真逆。それをお湯で戻されちゃ、たまんないね。せっかくイメージの隷属から逃げ出せたってのにさ。

大量消費社会

 性差、社会的平等、経済的自立、少しだけ、アイデンティティー問題。彼女は、このような生活がずっと続くとは考えていない。彼女は将来について明確な考えを持っていない。今の彼と結婚するかもしれない、程度のことは考えているが、考えが及ぶのは、せいぜい10年後の自分だ。その時には、シャネルが似合う女性でありたい、と。

 本書には、人口統計資料が添付されている。作者自身、1980年代のまま、右肩上がりの消費社会が存続するなどとは考えていないし、それが傾く原因は、貿易摩擦でも政情不安でもなく、人口減少であることを、想定している。これは、身に迫るリアルであるわけよ。そしたら、右肩上がりの意味だってないんだけどね。食い扶持が減るんだから収入減ったってかまわないのにさ。

 そして、ありあまる商品のなかから選択することこそが自由だなんて、この本は一言も言ってない。だって、選ぶものは初めから決まっているのだから。むしろ、選択の奴隷っていう弊害のほうが、ヤバイんじゃないかなぁ。

さいごに

 小説の賞味期限(いや、耐用年数というほうが妥当か)が、「共感を呼ぶこと」であるのだとすれば、「なんとなくクリスタル」は、極端にそれが短かったといわざるをえない。そこも、「ガイドブック」と似ている。でも、固有名を一般的性質に書き換えて、ブランドや曲名がもたらしてくれる気分だけを抜き出して、それを書いたとしたら、くそつまらない日記にもなりゃしないし、40年経って再読するなんてありえないわけだよね。つまり、歴史になってるわけ。一回限りの単独性による普遍化ってやつ?

 ここには、普遍的な「気分」に対する問題意識が確実に記されている。でもそれを「事物」で表しているから、書き換えは不可能なんだ。つまり、固有名って、比喩じゃないんだね。

 「なんとなくクリスタル」は、一切比喩を用いずに(エクスタシーは除いて)時代の気分を記すことによって、耐用年数を捨てて「象徴性」を帯びることに成功した稀有な小説なんだと、僕は高く評価する。僕が評価してもしょうがないし、続編の「ブリ後」も「後クリ」も、多分読まないんだけど、それらはそれなりに、まあ、成功しているんだと思うよ。田中さん賢いし。浅田さんも褒めてたし。

 所変われば品代わる。時代変われば品代わる。だけど変わらぬ物だってあるんだろうさ。その変わらない物を、いじったって、つまんないんだなぁ。それはそれとして、やっぱり変化していく部分に、とことん敏感でありたいじゃない。バックスキッパーズとしてはさ。その意味で、僕らはマゾヒストであるべきだと、唐突に宣言するんだ。田中康夫さんは、きっとマゾヒストだと信じて疑わないんだけどね、俺。間違ってたらごめんね。

付録

桃尻娘』1978.11.15 (1977)

風の歌を聴け』1979.7.23

『なんとなくクリスタル』1981.1.22 (1980)

『ルンルンを買っておうちに帰ろう』1982

『構造と力』1983

『パイレーツによろしく』1984

『今、浮遊感覚』1986.4

『キッチン』1988.1.30

超電導ナイトクラブ』1991.9.26

『テニスボーイの憂鬱』1997.12.25

 

『心はあなたのもとに』2011.4.13