望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

『勘の研究』ノート

はじめに

読書メモを、後日参照できるように記録しておく。(文中の《》内は私見。その他は基本的に同書からの要約および抜粋である)

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・『勘の研究』講談社学術文庫版 昭和59年9月10日 [原版は 昭和8年刊行] 作者 黒田亮さん。
・《『意識と本質』(井筒俊彦)『日本人は思想したか』(梅原猛吉本隆明中沢新一)等に直結する研究》
・さまざまな文献を自在に、かつ批評的に引用し、「勘」を「意識の及ばぬ神学論的地位(西洋的立場)から「意識の働き(東洋的立場)」の上に位置付けようとする研究。

本の構成

最初に、西洋における、哲学、心理学、精神医学、生理学等の研究の沿革と、主な成果についての批評的引用が続く。その後、東洋における「勘」の扱われ方を、剣法の極意、役者論語世阿弥の芸術、荘子の解釈、禅の見方、から抽出する。そして、ようやく「第十四章 心理学の定義および覚の概念規定 p.303」から、黒田さんの持論が展開される。実に300ページに及ぶ下準備は、これ以降の畳み込むような展開のためだった。本書を冒頭から順番に読んだとしたら、おそらく中途で挫折したことであろう。


「序」

勘心理学は著者のいわゆる覚自証を無意識の拮抗から救うとともに、全体性烙痕(Ganz-heitsstigmata)からの解放に向かって一石を投ぜんとするものである。
同時に日本人としてのわれわれ自身の生活を改めて見直すべきことを主張する。(昭和八年三月 著者記す)

第十四章 心理学の定義および覚の概念規定

心理学とは自内証の事実(体験)を記述する学。(意識、意識及び行動の学、というだけでは「覚」が落ちてしまう)
「証する」とは 直接自我に与えられる精神的な事実が存在する場合をいう。
「覚」とは 下意識、無意識と一部において共通な性質をもつが、下意識、無意識は、自証されない(意識されない)=内証しえない意味において心理学の対境とはならない。(間接的な方法によってのみ観測可能である限り、説明のための仮設としてしか扱えない)
心理の個体差について
客観的事象にある恒常性を過程しうるなら、自内証の事実に同様の恒常性を仮定することができる。《ファインマンさんの「数の数え方」の個人差のエピソードを参照。恒常性が仮定しうるとの判断は慎重を期すべき。そこには身体性が大きく反映されるものと考えられる》


覚の特徴(識との対比)

一 図式的

部分を全て漏らすことなく包蔵しながら、しかも部分に拘泥しない全体の性質を持つ。識では、部分を網羅すれば錯綜し、全体を描けば輪郭のみの漠たるものと化す。

二 含蓄性に富む

単に識における「言葉で適当に表現できない自証的事実」を含む、というのとは性質が異なる。自証する主観自体に十分よく納得され、あえて言説をもって形容する必要を認めないこと、をいう。暗黙の認識。これを強いてほじくると興が醒める。含蓄されたままの形で把握する場合、最も生き生きとした「覚」を自証することができる。《『ブッダの箱舟』夢枕獏さんの「般若心経は分かったことにする」について中沢新一さんがていした注意を参照》また『日本的、ネッわかるでしょ』に対する、不明確さ、不徹底さに関する懸念》

三 深みがある

識は平面的であり、この社会に起こる多くの平面的問題に対するのに適している。しかし深みを持つ問題に対する見通しを「造作」としてとらえると、問題を破壊してしまう。深みを深みのまま徴するのが覚の仕事である。ここから、覚そのものにも深みがあることが引き出せる。(ガラス板の比喩)

四 覚は自証の世界においてある位置を占めている

そして、方向を未然の形において持つ。幾何学を例にとると、点のごとき性質を持つ。但し、覚は未然のベクトルを有する。覚は何等かの方向を暗示する。《誘導する?》

五 覚は現実の客観世界との交渉において、識に対してむしろ間接である。(覚の遠心性)

《時空の直接的隔たりの影響を受けない》

六 覚は識と相並んで、あるいは単独で働くとともに、ある短縮された、または凝固された形において識の代理をする

特に習慣的動作の成立に際してみられる。識→覚に転じる場合もある。《小脳の働きとの関連》

七 覚には一種、軽快な感じが伴う(例外もあるかも)

識のように不可抗的な現実に束縛されることが少ないから。禅の悟り=解脱。芸に遊ぶ軽快味。

八 自我に対して遠心性を持つ

覚はわが自証である一方、なにかしら自分自身とは関係のない働きであるかのように思わせる。主観内客観。識は自内証の主観を、覚は自内証の客観を担う(副意識、無意識にくくって、自証の埒外へ放り出されることがあるが、それは間違いである)

第十五章 覚の具体的意義

構造を欠けば必ず支離滅裂であったり、あるいはそれは常に全体的(ここではきわめて朦朧たる性質を帯びたとの意)なものであると見るのは間違っている。
覚は無構造である。識は注意の度合いにより明瞭度が変化し、覚は念ずることの強弱によって遠心性が変化する。識は注意を増すことで一点へ集中し、覚は念じれば遠心性が増大し、念じなければ識と相並び、或いは識の影に隠れる。

識が働かず覚の念が増大すると、夢うつつの境を味わう→禅、無心を証する境地へ。但し、筆者の立場では自証の領域外の超体験、不可思議については扱わない。

構造的=明白な=explicit、無構造=含蓄的=implicit

覚は知覚、表象に相平行して、または独立に動くが、知覚、表象そのものではない。感情、情緒に随伴することがあっても、それ自体ではない。そして感情と思われていたものが覚である場合もある(親しみ性、快不快)。

「勘」は覚自証の中に入る。

第十六章 覚の質

子供が無心に遊び耽っている刹那、子供自身の自証に現れるものの大部分は覚。
充分修練したある技術に心身を打ち込んで従事し、油がのっている最中に働くものは覚。
禅における大悟徹底の境地は覚。
ぼんやりと戸外を眺めつつある時に自証に現れるものは覚。
これらに質に違いはあるか?

無構造であるが故に、均質ではないか? それにしては多彩すぎる。
仮説① 平行して働く識の影響
仮説② 心の一如平等は覚について言いうるのであってこの質的差別を離脱したところにこそ、本来の特徴が見出されるのではないか。

①検証 識相の働きがほとんどゼロに収斂しつつある場合の任意な二種の覚にて比較する。
②検証 a.ベクトルの方向、b.深さの違い をそれぞれ比較する。
三角錐螺旋の図)

第十七章 覚の成立条件

識と覚とに先後上下の区別は毫もない。
精神は客観相(特殊)と主観相(自証)に分かれ、心理学の対境となる。
主観相(自証)は識と覚とに分かれる。
(人間以外の識と覚に関する考察あり)
精神の働きが関与する動作には、選択の余地が賦与されている=宿命的な機械的拘束からの自由。→単細胞生物にも精神がある。それは覚である。
覚は無差別的、合目的的な反応。識は差別的文節的な反応。単細胞生物は体制の未分化により識が十分に発達しえないから。
識とは畢竟、生物の外来刺激に対する文節的運動に伴う自証である。低い発達段階にある生物の覚は、概して低次の覚である。(ただし、高い発達段階にある生物の覚が高次であるというわけではない)

覚に向かっての回心(心の置き換え)

問題への没入→忘の擡頭→絶対境→自在無礙の心

合体と忘我

奪人不奔境(臨済の四料簡)から人境俱奪
心境双忘(黄檗)=忘相忘境にしてかつ忘心の位

「稽古には台詞をよく覚え、初日には根から忘れ」(『役者論語』)
「せぬ心」「形なき姿」「あつという重」(世阿弥

人間的→神明的
衆生性→仏性
事理→(人為を尽くした後の)無事無理=「常をもって手本とする」(『役者論語』)、「天理に因り、固然に従う」(荘子の庖丁)

無雑混沌→純一無比の絶対境へ
無為自然恬淡(荘子)、一超直入如来地(仏教)無住の心=自在無礙の心。深さと見通し=手元に狂いなし、真正の見解(臨済

東洋心理学=実践心理学 《『日本人は思想したか』『フィロソフィア・ヤポニカ』》

生命現象、とくに精神現象の完全なる理解は、覚を除外して達せられるものではない。

第十八章 覚自証の生理的基礎について

過渡的暫定的原理の憶説として

覚自証の生理的根拠としては、神経や筋肉の不全興奮が第一に考えられる=勘すなわち覚は、一種の発生機における意識と称することができる。

化学上の類似性

非働性であるある元素は、これにある力が加わったために働性を帯びてきて、他の元素に結びつこうとする。もしうまく結びつくものにぶつかったとすれば、そこに一定の形態を具えた化合物ができあがるはずであるが、それに至るまではいわゆる宙ぶらりんの状態である。ただ、いつでも機会を捉える可能性が付与されてある。
つまり与えられたる問題ならびにこれと関連する刺激は、われわれの心の中のある部分を非働性から働性に移す原動力である。すなわちその部分を発生機の状態に導く原因である。幸いにこれに結びつくべきものが即座に発見されたならば、そこに識の世界が成立する。不幸にしてこれが見当たらないにしても、過去において少なくとも一度他のものと結びついたことがあったとすれば、いつかはこれと握手する可能性を持つ。
もしここに逐次的な過程が起こり、刺激→甲→乙→丙→丁と結びついていったとすれば、刺激と丁との間の甲乙丙は、刺激と丁とを結びつける単なる可能性としての糸としての性質を帯び《意識にのぼらず》覚(勘)によって丁が導かれたと意識しうるのではないか。《事後的に遡及することで勘が発見される》


《量子脳理論との親和性

ペンローズ・ハメロフ アプローチ

理論物理学者のロジャー・ペンローズと麻酔科医のスチュワート・ハメロフによって提唱されているアプローチ。二人によって提唱されている意識に関する理論は Orchestrated Objective Reduction Theory(統合された客観収縮理論)、または略して Orch-OR Theory(オーチ・オア・セオリー)と呼ばれる。

意識は何らかの量子過程から生じてくると推測している。ペンローズらの「Orch OR 理論」によれば、意識はニューロンを単位として生じてくるのではなく、微小管と呼ばれる量子過程が起こりやすい構造から生じる。この理論に対しては、現在では懐疑的に考えられているが生物学上の様々な現象が量子論を応用することで説明可能な点から少しずつ立証されていて20年前から唱えられてきたこの説を根本的に否定できた人はいないとハメロフは主張している。[1]

臨死体験の関連性について以下のように推測している。「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない。」と述べている[2]

理論の簡潔な概説
ハメロフのサイトにある理論の解説ページ。図が豊富に用いられており話の概要をつかむのに便利。
1996年にJCSに投稿されたハメロフとペンローズの共著論文。
書籍 理論の背景などを知るのに有用
竹内薫茂木健一郎によるペンローズ・ハメロフ理論の解説書。139ページから194ページに上のJCSの論文の邦訳が収められている(茂木健一郎訳「意識はマイクロチューブルにおける波動関数の収縮として起こる」)。
(以上 Wikipedia 量子脳理論)》

 
勘は一種の不全興奮とみて差し支えない。

(ただしこれは、説明の意味においてであり、記述の意味においていうのでは決してない)

補足(その他の章より)

第二章 勘の字義

直観・第六感・虫の知らせ・無意識または下意識・練習の機械化、自動化《体に覚えさせる》・技神に入る・神徠、霊感・悟り、禅、三昧・以心伝心・手加減、こつ、呼吸、手心
これらは、一 認識および判断、二 動作及び意志過程 にわけられ、二はさらに ア 習慣形成途中に現れるもの イ 習慣成立後に働くもの とに分けられる。

第三章 認識および判断に関連して表れる勘

ブント、ジェームズ「暈彩意識」
マルベ「意識態」
アッハ「意識性」→意識帯の特別な場合。認識された知の意識態
ビューラー、シュルツェ「思念」-非直観の意識態 
コフカ「意識態」は思考過程の中心要素である;課問から思念が思念を生む表層の連鎖

第四章 リンドボルスキーの先覚性図式

ゼルツの図式様全体の考想に単著を得たと考える。
アッハらの決定傾向と同じ。表象連動。連想は束縛されない。(音叉の喩)

ただしまず全体が与えられ、それから逐次部分が分化発展するという場合、まずその「全体」が怪しいのである。(全体性烙痕)

第五章一節 哲学的認識方法としての直覚

ロック「人間の知識の三種の段階」

1.他の事物の存在についての感性的知識
2.われわれ自身の存在についての直覚的な知識
3.神の存在についての間接的なすなわち証明的な知識


スピノザ(ロックを継承)

1.感性的もしくは創造的表象
2.理性 ←間接 直覚を基礎として働く
3.直接的な直感(直覚) ←あるがままの姿において直接これを把握する。


カント「直観」直接、対象に関係を持つ

知的直観は神以外には不可能。人間に可能なのは、時間および空間の形式で与えられる感性的直観のみ

知的直観を人間に許したのは フィヒテ、および、シェリング
近代において、直観的体験として直覚を力説したのは デュルタイ、リップスら。

シュミート・コバルチーク

直覚をもって、統括的体験である多様、形態、全体の中に統一を把握する作用。直覚は、特殊な判断に似通った体験、個体の理解、美なるものの核心を成すもの。

クローチェ

 芸術は直覚であり、感情は直覚に統一と関連を与えるもの。 直覚とは表現である。

エルドマン

公式化されたものと公式化されざるもの(直覚)とを区別する。直覚は一方(芸術概念)において論理以上であるともに、他方(動物・児童・心の働き)において論理以下である。

ベルグソン

直覚は抽象的にしてかつ外面的な悟性に対立する作用。直覚は本能から出発し、生命により近く立つ。直覚は「知的同感」をもって絶対的な現実化に直入する。エラン・ビタール〔生の飛躍〕によって営まれる創造的な進化の過程。真の「持続」はこれによって初めて体験される。

第五章二節 直覚の心理的考察

ワンデル・ホープ

直覚の定義:本能およびこれを最も明白に関係を有すると想定される無意識的な心的生活の自発的表現


ユンク(ユング)直覚を重視する立場をとる『心理学的類型』

直覚は知覚を無意識の方法において伝達するもの。「直覚は感覚にあらず、感情にあらず、また知的推論にもあらず。これらのいづれにも現れる一種の本能的な把握である。いかなる内容といえども、完全なる全体として直覚の働きによって現前し、いかなる経路を経てそれが到達されたかを発見することもできなければ、またこれを説明することもできない。感覚と同様に直覚は、非合理的な知覚機能である。直覚は主観的なことにも客観的なことにもなりうる。抽象的形式をとることも具体的形式をもって現れることもありうる」

感情および思考ー合理的機能
感覚および直覚ー非合理的機能

材料の提供
感覚→感情
直覚→思考

感覚ー一定の生理解剖的基礎を有し多くの場合十分な意識において働く
直覚ー材料を意識外に捕捉し、思考に向かって完全な状態として送り込むが、細目には感知しない

ドリューシェ

直覚の語を用いず「エンテレキー」(本能と並んで無意識的かつ合目的的な原動力)

デュナン

直覚は一種の神占に類するもの。中間の段階を経由することなしに推理作用の最終点に到達する能力
両性は両方を併用するが、より多く必要とするのは、女性は直覚、男性は推理である。

ロディエ 性差

女性は防御、男性は頭脳をそれぞれ第一とする。女性の直覚が男性の論理に優るのは現実界は複雑で、理論を超越するものであり、男性の頭脳のごとく単純ではないからである。


ゴブロー

直覚が経験から区別される重要な標準は、むしろその間接性にある。
「直覚」はわれわれに対して偽性経験の性質を帯びたものとして現れる。偽性経験とは経験のごとく見えて実は経験であらず、また経験ではありえないものである。直接経験は自然的な知覚、直覚は獲得性知覚または間接経験の結果だ。良心は道徳的経験ではなく、道徳的直覚。(もし経験であったとすれば過失絶無のものとなるから)。宗教的経験というのは誤り。宗教とは本来直覚的なものである。

ホアソン

直覚は感覚または理性の証明なしに生ずる知識、外部からくる知識だが、直接的な表象として現れる。元来は知覚または表象により刺激された下意識の彫琢の結果だから、われわれの心的過去に依繋する。心に向かってその可動性および新表象の結合の可能性を確保する目的で、観察と想像との働きによってこれを発達させることを要する。

リューバ

直覚的体験の一種である神徠の問題についての考察
神徠は長い労作の結果であり、かつてひとたびも念頭から遺却されなかった問題から生ずる。これは全ての思惟の特質でもある。

実験的分析の数少ない試み:ファンブリ、デ・サンクティス、ドゥエルショーベルスら。

ファンブリ

自動における直覚性の存在を証明する研究(穴あきボール紙による実験)
直覚的推量の精確度は、知的発達に反比例する。

デ・サンクティス

非論理型または前論理型思考についての実験
児童の知覚は非分析的であるとともに混同的。成人の知覚は分析的であるとともに合理的であった。


ドゥエルショーベルス 三種類の内省による研究

心的活動における内部知覚が意識に現出するに当たり、いかなる経過をとるかの研究。
1.被験者に与えられる指示
2.被験者の反応すなわち感覚刺激に対する応答
3.実験直後に与えられる被験者の内省的事証
→直覚は観念運動的過程の一つと見るべく、含蓄的思惟とその実現すなわちこの思惟に与えらえる表現との間における媒体。

ゲー・エー・ミュラー 聚合性注意

複合体の把握に関係して使用される
①聚合性同時注意:複合体を同時的に統一的な全体として把握する
②聚合性継起注意:複合体を構成する個々の成素を急速に渉猟する

「聚合性」なる形容詞に伴われるかぎり直覚に特有なる一部の性質を備えているもとみなすことができる。


第五章三節 ディブリーの直覚説『本能と直覚』(1929)

本能および直覚の中枢を仮定するについての論拠において異彩を放つ論文研究。
問題点1.本能の取扱いに混乱をきたしている 問題点2.無脊椎動物、昆虫を除外せざるを得なかった点
下級中枢として、とくに視神経床をもって感情、情緒の中枢であるとする見解は賛同者も多い。


第六章 下意識(無意識)

二節 下意識の意義

シャルコー、ジャネーのヒステリー研究。視野狭窄。《クオリア問題に抵触》

三節 下意識の説明に関する学説(一)

1.無意識とくに下意識とはある与えられたる瞬間において注意の焦点以外にある意識野の部分
2.下意識活動は分裂または崩壊した表象から成立する
3.フレデリック・マイヤーズは、下意識をもって閾下自我と見る。われわれの人格の大部分はこの閾下自我から成り立っている
4.下意識は分解された経験である(不活動状態にある意識) 《注意が届かない部分》
5.下意識を生理的意義に解釈するもの:下意識とは意識と伴わない脳髄の働きである(ミュンスターベルヒなど)
6.敏活なる思考作用は意識するか否かを問わず独立に存在しうる(自動書記など)

フロイドの無意識は下意識とは同義ではない。
精神分析的技術によってのみ探知しえて、かつ意識に持ち来たらすことができる部分《→心理学の対境外》

四節 下意識の説明に関する学説(二)

ブント

無意識・下意識は、意識にあらわれていなければ知ることができないのだから、心的過程とするのは不合理だ。

リップス

オーケストラにおけるここの楽器の微弱な音は、聞き分けることはできないが、合奏に影響を与えている。

ブント(ライプニッツを継承して)

それは、明瞭、不明瞭の度合いである。聞き分けることできないのは不明瞭だからで、意識にあらわれているのである。

リップス

感覚や表象の生起消滅は漸次的ではなく突発的であるから、不明瞭→明瞭 という問題ではない

フレーベス 下意識の名称の下に包括えられるべきもの

1.無意識動作(催眠状態)
2.無意識知覚(催眠によって意識にのぼらなかったものを自証できる)
3.無意識的思考活動(催眠後暗示)
4.組織的感覚脱失(消極性幻覚)(禁止的催眠後暗示) 


 捕捉 その2 東洋的勘に関する章の章題のみ列挙

第九章 剣法の極意
第十章 役者論語に現れたる覚
第十一章 世阿弥の芸術
第十二章 荘子の解釈
第十三章 禅の見方

                                     以上