はじめに
年末年始に録画したテレビ番組を見ていて、感心したことや、心配なことのメモ。
神がかった展開 ―明石家サンタ
一人目の採用ネタから姉妹ネタそして車獲得の流れ。お約束完全網羅職人がハズレを引くまで。さらに、さんまさんをしきる八木さんの手腕。素晴らしかった。そして木田さん。ありがとう。
ニ物衝撃 ―タカアンドトシさん
風呂に入っている帰省息子に、着替えのことで声をかける母親。
「パジャマとヘルメットどっちにする?」
この絶妙のチョイス。「つきすぎ」でもなく、「ミシンとこうもり傘」という完全に無関係でもないニ物。俳句でいうところの「取り合わせ」。質感といい、用途といい、全く申し分がない。
ヘルメットパジャマの上や震災忌 (例句は不味いが……)
伝説の(お笑い芸)人 ―明石家さんまさん
裏表なくしゃべりつづけ、場に「笑」を生み出す使命に生涯を捧げる人。
将来、彼が亡くなった後、彼の逸話の大半は「伝説として誇張されたものだ」とされるのではなかろうか。それらは全て事実なのだ。その生き証人として同時代に生きられることが楽しい。
滝沢カレンさんの苦悩
「勉強すること、知識を入れることを偉い人にとめられている。自分はいろいろ知ることができるのはうれしいのに」
と「さんま御殿」で語っていた滝沢カレンさん。
まず、滝沢カレンさんは、知識が足りないのではない。そしてボキャブラリーが貧困なわけでもない。理解力が低いわけでもない。(以前ブログに書きました)
彼女をなめてはいけない。
彼女にはどんどん知識を取り込んでいただきたいし、言葉の適切な用法を学んでいってもらいたい。そんなことで、彼女の言語感覚(=感性)は汚されることは無い。
気がかり
この番組内で、彼女が「周囲が求める滝沢カレンを演じようとして」言葉を選んでいるように感じられる場面が幾度かあった。表情も暗かったように思う。
滝沢カレンさんは滝沢カレンさん像を超えてなお、魅力的であり続けるはずなのに。 周囲の偉い人達の臆病さ、器の小ささが腹立たしい。がんばれ。カレンさん。
劇団一人からイッセー尾形への道 ―柳原可奈子
①いわゆる「一人コントの話法」(相手が言っている言葉を繰り返す話法。ひじょうに不自然。モロ師岡さん、狩野英孝さん、あばれるクンなど が陥っている。これは、脚本が練れていないために生じる)を、意識的に排除しようとしていること。
②説得力をもたせるために、マイムをおろそかにしていないこと。
(劇団ひとりさんのネタは、あまりマイムが重要とならない。これはコントとしては正しい。両者の間(劇団ひとりさんよりだが)にあるのが、東京03さんだと思う。)
課題(ってわたし何様よ)
ただし、彼女の取り上げる人物像はみな似ている。性別容姿に囚われないネタを期待している。(イッセー尾形さんに森田雄三さんがついているように、彼女にも誰かついているのだろうか?)
非武装中立 ―ウーマンラッシュアワー村本大輔
年末に、世界情勢をとりあげたネタをしていて「そういうのやる人もいないとね」と思ったが、「やっぱり噛まなぁ。すごいなぁ」という気持ちでみていた。
ネットニュースで、「非武装中立」だ。と書いてあったのを読んでみた。
彼の理解として「非武装中立」=「非暴力・不服従」なら、原則的に間違ってはいないと思う。
「じゃあ、日本が侵略されたら…」「じゃあ、あなたの肉親が殺されたら…」「あなたが殺されるとなったら…」「抵抗しないんですか?」「しません」「人を殺めることで守られるものなどない」
非武装中立だが、自衛は行う。という姿勢が、世界の趨勢である。
「中立=侵略しない」「だからあなたがたも攻めてこないでね」という主張に対し「何勝手に中立とかいってるの?」と言われ、攻め込まれたら、自衛のために戦うでしょ?そこで立ちむかわなかったら、どんな悲惨なことになるか…… 村本さんを攻めていた人達の考えはこういうことだったと思う。
罪を犯すくらいなら死ぬ。それを潔い、尊いと捕らえる考えは、宗教にはある。
ガンジーさんの「非暴力・不服従」は、無抵抗のまま虐殺される事実を世界に発信することで世論を味方につけ、相手をとめてもらおう。という運動に他ならない。いわば、人の良心に訴える消去的自爆防衛であったと思う。(これには、数が必要である。散った命の数だけ、ニュースも大きくなるだろうから)
少年漫画じゃあるまいし、
「おまえ、本当に手をださないんだな。お前の本気がわかったよ。おれが悪かった。握手しよう」なんて国、あると思います?
互いに侵略をしないこと。つまり全世界が一斉に「非武装中立」を宣言遵守すれば、少なくとも対外的武力戦争はなくなる理屈だ。となると、世界共和国になった暁には、地域紛争のみの世界となるわけだ。(というのはまた別のお話で)
ネタ番組に呼ばれず、いきなり本域の評論家の中に放り込まれた村本さんも気の毒であった。だが自分のキャラクターと役割の上で、極論を振りかざした姿勢は評価すべきである。実際、このように爪あとを残せたのだから。
アノ場ではみなが役割を演じていただけのことで、村本さん一人がバッシングされたのは気の毒であった。
「非暴力不服従的非武装中立」なんて馬鹿げている、とあっさりと否定し、その理念を揶揄し、罵倒できてしまう人達の良心のほうが、じつはよほど黒く、おそろしいのではないかという気もする。なぜならば、自衛していない、または、自衛力の劣る(つまり腕力の弱い)者は、蹂躙されても仕方が無いという考え方のすぐ近くにあるからだ。
盗まれるほうが悪い。犯されるほうが悪い。殺されるほうが悪い。そういう現実に私たちは生きている。
以上