望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

泥濘の公理系 ―言語・VR・貨幣

  はじめに


 「記号は意味を持たない」ここは絶対に譲れない。

 意味をもつ記号は言語と呼ばれるべきである。従って、記号が「指示記号」であるなら、それは言語の別名であって「記号」ではない。
 「記号」は何をもって「記号」たりうるのか?それは、単なる落書きとどのように区別されるのか?

 ところで、「単なる落書き」とはいかなるものか?

 打ち合わせ途中の片手間に幾本も現われた、自在な、定型の、不定形の輪郭をまとわされて、始点と全く無関係な終点を目指すでもなく、唐突に打ち切られた一枚のメモ。その痕跡は、「記号」と呼べるだろうか?
 唐突に現われる「破」という書きなぐり。無数の円の繰り返しの中の「申」という漢字。その場では意味を剥奪され、ただペンの軌跡として残ってしまった痕跡の一部であったはずの「ゆ」という平仮名。それを文字としてみれば、意味がある。だが、メモ上の文脈において、その意味は無意味であるという場合、これらは「文字」なのか「記号」なのか? また「記号」と打ち込もうとして「希望」という言葉を確定してしまった間違いは、本当に無意味といえるのか?

言語と意味とは恣意的に連携する。

 その意味で、「言語は本来的な意味を持たないのだから、意味の有無によって、言語と記号とを区別するべきではない」との意見もある。だが、「本来的意味」などという伝説の地をもちだすのは、今はよそう。
 言語と意味の結びつきは恣意的である。だが、言語と意味とが結びつかなければ、言語も意味も存在しえない。という観点をもっと大事にするべきである。

 「まづ、光あれ(という言葉があった)」「それより前に、光と光、あるとある、あってほしいという意志と、その意志をそのように言い表せるという約束、があった」のである。

意味は単独としては存在しないし、何も意味しない。

 意味とは差異である。

 無限な値をとりうる差異のなかから、「共通する差異」によって意味を見出すことが「体系化する」ということで、そのような世界を「任意の差異を共通項とした公理系」と名づけることができる。
 公理系は意味を重視する。記号は意味を担ってこそ役割を果たす。つまり公理系とは「言語」によって満たされており、言語化によって公理系を拡大することができる。


意味とは受け手にとっての意味である。

 送り手は、自らの意図する意味が相手に届くよう、最善を尽くすが、それがどの程度成功するかはわからない。互いに異なる公理系に住む二人にとって、言語は時として記号として現われるかもしれない。その剥き出しの記号に意味を纏わせるべく、通訳が活躍する。
 通訳とは、記号に意味を押し着せることだ。丈に似合わぬ衣装であっても、若干、礼を失してでも、通訳は記号をオートクチュールする。ただ、意味はオーダーメードである。(といった修辞はもはや記号化寸前であろう)

以上まとめて、この後の文章の露払いほどの役にも立たない、ということは言うまでもない。

参考URL
記号と情報
田沼正也
http://www.wind.sannet.ne.jp/masa-t/semioeng/information/si03/si03.html

符号理論(wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A6%E5%8F%B7%E7%90%86%E8%AB%96

かの「モードの帝王」イヴ・サンローランオートクチュールに関し、以下ようなことを語ったそうだ。「芸術的衝動を服飾というスタイルで実験したいと思った時、その贅沢な素材と高度な裁断、縫製技術をもつオートクチュールのアトリエこそが、その実現を可能にしてくれる場だ」。

ファショコン通信 オートクチュール(haute couture)ってなに? より
http://www.tsushin.tv/begin/whats_h.html"


 言語

 80年代。コピーライターという職業が花形となる。「糸井重里」さん。
 世はポストモダン。難解なはずの西洋哲学がネオアカブームを巻き起こした。「浅田彰」さん。
 全てがテキスト化し、一回性、歴史性といった重みが敬遠されると、あらゆる文脈は春の蝶のようにヒラヒラと自在にただよい、あらゆるミスマッチを可能として軽薄短小のノリに消費されていくこととなった。
蓮實重彦」さんは、意味を離れた記号が浮遊する時代を、まさに記号によって解体しようとしていたが、そのような愚鈍な作業を待たずして、世はなべてこの世の春を謳歌しつくそうとしていた。
「主体」という「哲学における最大の質量」のくびきを逃れるための活動を、「内向の世代」を通じて実践していた「柄谷行人」さんをして、この「批判なき自然(じねん)=ポストモダン」へ危機を覚え、一転「モダニズム」の探求に舵を切る。

 ここに、記号と戯れ尽くす浅田さん。記号を意味の解体の道具とする蓮實さん。意味を意味で自壊させようとする柄谷さんという三様の取り組みが浮き彫りになる。その過程で柄谷さんは一時精神を病むことになるのだが、「自己言及命題」に真正面から取組んだ者にとっては避けるべくもないことなのであった。「意味という病」というタイトルがこの時代を象徴する。

 情報という純粋差異

 言語には意味のしがらみがつきまとっており、その粘度は非常に高い。それでなければ差異を形作ることができないからだ。つまり、意味というものは、取扱が非常に困難なものであったといえる。

 だが、ポストモダン脱構築)は、その分子構造から、「粘度」の相当する部分を外す方法を確立した。
 言語を、意味と記号とに擬似的に分離すること。ただし「無意味化による理解不能に陥らぬ程度のルーズジョイント程度の差異関係のみを残して体系化する」ことに成功したのだ。

 ポストモダンは、「ポストモダンという公理系」へ我々を移住させたのであった。
 その最大の功績は、言語と意味とのルーズジョイントから情報を抽出することに成功したというところにあったと考える。それは、電波望遠鏡や、電子顕微鏡などのように、間接的方法ではあったが、そもそも、「意味」などというものを「直接」観測することなど不可能だった。

 このようにして取り出された純粋な差異は、言語ー意味 という扱いにくさを完全に払拭することができ、コンピューターといううってつけの道具も生まれていたのである。

 「言語ー意味の粘度」とは「主体」であり「歴史」であった。それは「単独性」「一回性」であることの不自由さなのであった。それらは、重たく扱いずらく不自由でなければならないものであった。なぜなら、それは「肉体=命」と等しい場所にあったものだったからである。
 ポストモダン公理系において、この粘度を捨象し「情報化」に邁進した"00年代"。ここには大いなる不安がもたらされた。

 「情報」だけが無限に加速し、その中で頭をかかえている肉体。この公理系に生身を晒すことなど、自殺行為であった。情報には情報で立ち向かうしかない。それは必然的に「シミュレーション」世界の拡大をもたらすことになり、同時にその場で、失われた肉体性をも回復しようとするあまり、「VR」の完成が急務とされたのだ。

参考URL
現代思想マップ 「構造主義ポスト構造主義
http://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/content.php?pid=591108&sid=5070356


VR

 私が不思議でならなかったのは、なぜ「シミュレーション」が五感にとってリアルであらねばならないのか。であった。今回のブログの発端はここに始まった。
 この疑問はこう言い換えることができる。「シミュレーションをリアルにしたいのは誰か?」

 だが、これに対する回答はすでに出た。「命の営み」を「純粋差異」という「情報」へと脱構築された肉体の「存在に対する不安」が、リアルな世界の質量に対してあまりに無防備な「我という情報」を補完するために、綿密すぎるシミュレーションを求めるのである。そこは「リセット」可能なVR世界であり、自分をいかようにも設定できるチート世界でもあった。

 こうして、生身の世界は、VR公理系へと引越した。


 『ゲーム感覚』という形容が、負のイメージをもって語られるのは、前述のナイーブさを共有しえない年寄りの野蛮さを表している。彼らはシミュレーションよりも、当たって砕けろ! を信条とする肉体の強さの信奉者であった(というか、当時は、肉体をもった人間関係しかなかったのだ)

 「情報」に翻弄され、「VR公理系」に帰化して生きようとする我々は、もはや「情報が重さをもたない記号の戯れ」であるなどと、軽んずることなどできるはずはない。

 ポストモダンは、その公理系において「主体を差異へと還元しつくし」終焉をむかえていたのである。


 質量から解き放たれ、一切の意味を離れ、無限回の試行を可能とするVR公理系は、膨大な情報を産出した。いまやリアルワールドに生きる時間の大半が、シミューレションの試行に充てられる。
 それはつまり、情報に「質量」を付すことに、他ならない。野放図に増出した「情報」のすさまじい圧力。その重みをひきうけるべきは、脆弱な、「命の営み=肉体=生活」なのであった。


貨幣

 言語はただの言葉であって、記号はただのシミでしかなくて、貨幣はただの交換基準でしかないと、かつては考えられていた。そこでは圧倒的に強靭な「主体=我」が前提されていた。とてもマッチョな時代の考え方だったのだ。

 これを端的にいえば、「飢え」である。ただ「飢え」だけがリアルな時代があった。そして今また、「飢え」におののく時代が訪れたのである。

 だが、旧時代の「飢え」が「狩り」に直結したのに対して、我々の「飢え」は「飢えを解決するシミュレーションの試行」へ繋がる。

 貨幣はどこにあるか?

(資本主義経済に関して深入りするのはまたの話とする)

 VR公理系が質量を備えるとは、とどのつまりは、RMTであり、仮想(的)通過、の浸透を意味している。

 80年代に実体論を簡単に超己してしまった私達の「差異の公理系」の前では、金本位制など無意味な足かせにすぎなかったし、言語が意味をもつことも冗長で、不自由なだけであった。
 だが、こうした制約・制限は、意味が野放図に蔓延するのを防いでいた。

「意味」は実体を伴っていた。(仏教的実体論とは別の話)そこには「生身の主体」があり、時として理不尽なまでの難くなさで、「NO!」を突きつけることすらあった。「意味」は質量である。枷である。背負うべき重さである。「ものは試し」とばかりに増やしてみたり、減らしてみたりできるものではなかった。それは歴史が許さなかった。
 だが、私達に、そういう歯止めは失われていた。質量を備えた差異の沙漠に喘ぎ、靄をつかむような身振りで、電子の渦に飛び込んでは、利益確定する。海女のように、鵜飼の鵜のように。

 結局、生きているのは生身の肉体なのである。そして、その海や川などを満たすものは、生きとし生けるものの(情報化された)血なのであるということを、わすれてはならない。

 あらゆる差異とは、全ての命の差異なのである。

 ここへきて、なんという「マトリクス」世界だ。あんな陳腐な脚本の通りの世界を、我々は望んできたわけじゃない。(貨幣の揚棄についてもまた別のお話で)

さいごに 無量四諦

 質量を持たない(はず)の純粋差異として世界を眺め、そのような観点を保持したままで、実生活に還ってくること。そのとき、この「肉体」や「我」の「空なること」を感じて、世のしがらみ(意味)から離れて自在であること。それは、法華経の説く、無量四諦の境地に酷似している。
 だが、現在では、そのようにして「貨幣」をつかみ出してくることができる。それはおそらく、「情報の公理系」におけるごくごく自然な姿なのである。

だが、なぜそうなのか?

 人間には他の往き方はなかったのか?

 それとも、資本主義がもたらした情報の公理系は、あらたな公理系への途上なのか。それにしても、そのロードマップは、いったいどこに通じているのか?


 人は「肉体」の限界を超えようとしてきた。だが、そこに「情報」を挟むことの危険性を、電気を得るための湯をわかすのに「原子炉」を挟むことの無謀さになぞらえてみる。

あんたバカ?…… といわれながらも、そんなことをシミュレートしてみたりする。