はじめに
先日図書館で借り出して、昨日読み終えた。後藤明生さんの未完の小説である。未完であるがゆえに、いつ読み終えてもよく、いつ読み終えてもよい、ということはどこから読んでもよいという、誠に、気楽にページを捲れる小説なのである。
だが、読み始めてみると、なかなか気楽な態度を貫くことは難しかった。
なぜならば、おもしろすぎた。からである。
谷崎さん
例によって
この小説に関する、感想文、評論文、研究文献は、枚挙に暇が無い。ちょっと検索してみれば、あっさりしたものから、穿ったものまでよりどりみどりのブログが出るわ出るわ。それらを読んでいれば、この本のおもしろさや、仕掛けや、文学史的位置づけや、作者の心理状態や、文壇のあり方、はたまた読者(つまりそれぞれのブログの筆者)の知識経験探偵力などが、かってにドドドドッと迫ってくるのである。
ではなぜ、この期に及んで、後だしジャンケンのように、私が「『この人を見よ』を見よ!」的な、薄っぺらな文章を書き連ねねばならぬのか?
一体、人が自分のブログを持つということに、自己顕示欲と承認欲求の他に何があるというのだろうか? 社会貢献? すでに返却をおえて、ノートすらとっていない未完の小説の感想文で、すくわれる命があるとでも?
太宰さん
引用こそが自我である
と、旗色が悪くなるとすぐにこんな標語でコケオドシをするのが、悪い癖だ。21世紀の現代。この国においては幸い、思想弾圧の少ない風潮。あるとすれば自己検閲を許すゆるゆるの主義主張のみという体たらく。尖がってる奴は尖がっている。おもに奇妙な性癖という分野へ偏りすぎのきらいはあるが、戦艦や、刀がヒロイン・ヒーローになって、歴史的事実が再発見される昨今。ここにようやく、ポストモダン的爛熟が、つまりは成熟が、達成されつつあるのだと鼻息も荒く、検索しまくる自由万歳。
三島さん
息を吸わずに深く潜れ
有無。産む。熟む。膿む。人生は引用だ。だから、引用を隠す物語は嫌いなんだ。オリジナルとはオリジナルな引用のことである。ネットは広大だが、どこまでもぐれるかは、個人のスキル次第ではないか。より深いところにある引用元。埋蔵された引用の引用。だが、誰も知らぬ引用元を引き当てては、引用にならなず、「要出典」の検印を押されて削除されるのがオチだ。引用はみんなが知っているところからね。どこにでも売ってる帽子から、どこにでもいる兎を取り出してみせる手際。いや、そんな兎がいたような気分にさせる技量、こそが小説の悦楽ではあるまいか。
芥川さん
谷崎太宰芥川聖書中野文学年表
オーソライズされた、いわば散歩でもすりゃそこかしこにごろごろしてる石っころやら、便所コウロギやら、ペンペン草やらといった類のものでもね、付き合わせてみれば案外と「真実」を晒すものだ。歴史はみんな繋がっている。歴史に裏も表もない。隠してるか隠れてないかの違いだけしかない。ケネディーさんの秘密文書が公開されるっていうけど、秘すれば鼻、って感じだろうな。芥川さんの鼻の向きが、ひじょうに重要な意味を持っていた(らしい)という意味では、もしかしたら、オズワルドの鼻からも新たな意味を看破できるのかもしれない。
志賀さん
ハウメニイイイカオ
カタカナ混ジリノ文章ハ、読ム気ニナレナイガ、文体ニハ、表記法ノ問題モ含マレル。文体ガ変ワッタラ書キ手ガ変ワッタトミルノガ、インテリジェンスノ基本デス。ト、右京サンハ言ッタ。一方、形式トハ音符ノヨウニ自在に組ミ合ワサレナケレバナラナイ。ト、後藤サンは言ッタ。バレットジャーナルノヨウニ、様々ナ意匠ヲ着替エルヨウニ。
形式トイウ不自由ヲ脱スルタメノ形式トイウ矛盾コソガ、自由トイウ 」ナノデアル。
ドストエフスキーさん
感覚と重ね合わせ
付き合わせれば、齟齬が出る。徹底的に付き合わせれば、誤魔化しきれない部分が、そこだけ、指でなすり付けたかのような、不鮮明さで浮かび上がってくるものだ。と同時にその指のあとから、DNAが検出できる。なぜなら、意志に手袋や漂白剤は無効だからだ。捜査における「証言」主義は、ここに由来し、同時に「言ったことには責任をもて」といういつぞやの「負債論」に出てきたような超理屈をもって、証言者を縛ろうとするからである。
殺す意志があれば誤魔化す意志もある。通り魔だろうが、事故だろうが、どこを向いたものであろうが、目を閉じることであろうが、意志は意志だ。そして意志とはどこまでも後付でしかなく、その意味で我田引水と断じざるを得ない。
横光さん
不倫における三角形において消された一点とは
日記には嘘が書ける。では自分に嘘をつくことは可能か? さらに、そのような嘘は有効か? しかして嘘の有効性とはいかなる状況をもって判定されるべきか?
中野さん
取り消すため、いわば弁解のための嘘。
あらかじめ正すことを前提とした嘘を書くにあたって、後藤さんは常に、用意周到であり細密であった。そのあまりの心配りによって嘘を嘘にすることができないという点。ただその一点のみが、後藤さんの小説の限界である。無論、その限界は、現在観測可能な限りの宇宙の果、に匹敵する広さを有したものなのだが、その点で、中上健次さんの「命がけの飛躍」には叶わないのだろうという気がしている。
小林さん
さいごに
こんなにおもしろい小説はありません。さまざまな形式、文体を駆使して、脱線に継ぐ脱線のなか、さまざまなレベルで重ねあわされる言葉と言葉。概念と概念。図形と図形。探偵さながらに文学史をひもときつつ、聖書の戦略を暴き、深い洞察力によって作家と作品との関係性を紐解きながら、いよいよ、三角関係の核心に触れるか?といったあたりで、この小説は中断しているわけですね。
素晴らしいのは、この小説が未完であるという点において損なわれた価値が、ほとんど無いってこと。つまりですね、ジオングの脚、みたいなものでしかないというところだと、私は思うんですよ。(未完)