お断り
今回のブログでは、江戸あたりの「性具」に関するセクソロジー的妄想を取扱います。性の嗜みという意味で、R15にいたします。(図版等は全くエロくないです)
はじめに
自在置物を見た
前に「なんでも鑑定団」でみた「龍」の自在置物とその作者についての番組内の解説にいたく驚いたのはいつの日か……(2013年10月15日放送分)
また見た
日曜美術館 アートシーン ▽驚異の超絶技巧!―明治工芸から現代アートへ―展(
2017年10月15日放送分 )
奇しくも同じ10月15日。
四年越し自在置物ぐねぐねの10/15は自在記念日 たまらわんち
鯉のあれ
とくにぐっと来たのは、「鯉」のアレだ。
技術と性の親和性
このフォルム、この動き。この黒光りする一物。
技術はつねに「エロ」と「イクサ」で発展する。自在置物は鎧職人に始まる。その出自を鑑み、「エロ」との融合を探りたい。いかな「職人気質」といへど、「四角四面の杓子定規の堅物」なばかりじゃ、鍛錬も続くまい。
リアリティーの追求
職人気質とは、何事か一つを極めんとする気質である。自在置物の職人が目指したのは、「リアリティー」であった。
自在置物(蝶・鯉・蟹・蟷螂)江戸時代(大倉コレクション)
解体新書
姿形はもとより、その動きを完璧に再現すべく、一個の生物をパーツ分けし、その繋ぎ方に工夫を凝らす。接続部位を一切みせず、なめらかで、しなやかなに動くその造詣を手にしたとき、その触感はまさに、リアルを感じさせる。
オブジェ化
だがそこに魂はない。魂はないが、死体でもない。そのリアリティがまとう、ある種の不吉さは、まさに「人形(ひとがた)」のそれに酷似している。
HENTAI万歳
リアルに再現されればされるほど、魂をもたない「オブジェ」化してしまうという逆転。だが、剥奪された魂によって裸にされた人形さえも、偏愛してやまないのが、フェティシスト(HENTAI)ではないかっ!
張型にはじまる
職人は真面目なので、真面目にリアルを追求し、その忍耐力は尽きない。
まづは「張型」である。暇をもてあました遊興三昧の武家の奥方や、大奥の奥座敷で悶々とする有閑マダム連の、性欲を満たす道具を、「私だけのマラ」を、リアルに、作っておくれたも。と。秘密厳守。うまくできれば金に糸目はつけぬ故。
職人としても、取り組み甲斐ある題材であったはず。なにしろ、サンプルはいつでもぶら下がっている。こいつを、どうやって再現するか…こいつぁ、おもしろくなってきやがったっ!
全体性の追求
姿形にリアルを追求した職人に別流あり。「生人形」の系譜である。
かのように、「外観」に全フリ。といった姿勢もまた潔い。
人間人形人形アンドロイド
「まぐわいシーン」を再現させて「秘宝館」みたいなところに置いたりしていたに違いなく、エロ・グロ・ヌードの時代には、血みどろ芳年的無残絵の再現なんかもあったろう。見世物小屋などにおかれ、現代百貨店のマネキンへと連なる「人形」の流れである。(マネキンが人間化し、人間がマヌカン、コンパニオン人形化する逆転、さらに人形化した人間から、アンドロイドへの変遷、あたりもまた別のお話で)
オリエント急行
木彫だと、性具にするには少々硬すぎたかもしれぬ。ジュサブロウさんに連なった布人形なんかだと、せいぜい高級な抱き枕扱いにしかならぬ。やはり、シリコンの登場を待って、オリエント商会さんにあらゆるパーツが集まっていく過程を辿るのが王道なんだろうが、それはまた別のお話で。
からくり人形
人形には動きがない。とチンエコは言ったとか。
生き人形はいい線(ライン)だった。ラブドール、というよりは立体エロ本。セクソジオラマとしては、なかなかよいし、座敷に着崩した和装でしどけなく座らせておいて、凄いような月明かりの下、一献傾けるなんてのも乙だ。で、手淫するか……って、これは少々生すぎる。っていうか工夫がないな。パンパン。これ、自動手淫機械をもて!
というと、寺山修司さんになっちまうな。
器官ありきの機械
あくまでも、人形。もしくは人間の器官にのっとっていなければな。機械仕掛けはまた、別の欲望だよ、たとえそれが一枚の皮にすぎなかったとしてもね。
剥き出しの機械で性欲処理をする感じって、いわゆる「射精産業」で対価を払って手コキしてもらう感覚に近い。ビジネスライクであればあるほど、快感が増すってのは、一種のマゾヒスティックな悦びではないかしらん。そこに愛はない。純粋快楽男と恋愛ジャンキー娘。なんてピンク映画。つくってくんないかな。
不気味の谷の快楽
ところで、美しい顔をもった女の人形の手をやわらかくぬめぬめにして、そいつを、カムやらクランクやら鯨の髭やらで永久反復運動をさせるというからくり人形はいかがか? 人間が機械化したものと、機械を人間化したのとで、どんな違いが現われるか。いずれにせよ、前者は自慰ではないが、後者は自慰だということは明らかだが、その線引きは、もはやアイマイだよ。
からくりは他人でも自分でもない
脚とか首とかに紐をつないだ柄袋吾妻型なんかより、暖めた蒟蒻のキレコミや、よい感じに穴をあけた外郎や、ちょっと高いヘッドホンではさんで擦るより、からくりの方がずっと優雅ではあるまいか?
女性だって、自分の手や踵やなんかで、出し入れするよりアナログチックなからくりで微妙な揺らぎで気をもたせられたりするほうが、ずっとよいかもしれないよ。
お前をローニンギョーにしてやろうか
と、このようにからくりを用いて快楽にふける人そのものが、なんだか全体的に「からくり人形」めいてくるってのも、奇態なことだねぇ。お前さん。魂、抜かれたね。いえ、まだ骨までです。お後が続かぬようで……
渓斎英泉の『閨中紀聞(けいちゅうきぶん)枕文庫』
江戸大人の玩具カタログだそうで。
ないぞ。ないない。
こんだけ、網羅してあっても、「自在置物」仕様の道具は書いてないもよう。おかしいな。本当に、「自在の技術」は「性」に流入しなかったんだろうか……
侍従の君のおまるにて
いや、おそらくこの『閨中紀聞枕文庫』は、庶民生活カタログなのではなかったか?(ここで、現在ある適当な季刊カタログ書籍の名前をあげて、遠まわしに揶揄してもよかったが、適当なものが思いつかなかったので、その志のみ記載する)
スーパーセレブな奥様だけに
自在置物張型はきっと高級品だったはずだ。しかも、発注は極秘裏に行われただろうし、堅気な職人気質は、いかに遣り甲斐ある仕事だったとしても、マラなりコツボなりを作りました、なんておおっぴらにはしたくなかっただろう。
四ツ目屋さんのカタロググレードでいえば、最高級品。もう、蒔絵を施した豪華美麗な箱に丁重に仕舞われていて、外商先でも、「では、れいの、ナニを」「まぁ。すこし待って。今人払いを」って感じの密談で、行李の底から取り出して、箱のなかから、取り出すのは、雲母刷りの多色木版でリアルに細密に、その使用法やらイメージなんかを人気若衆のグラビア総出演で描いた、浮世絵本だったに違いない。
カタログが用済みの際には、この箱はぜひ、おまるにでも。ってね。
八橋蒔絵硯箱(尾形光琳)
そんなだから、まぁ、表にはでてこないんだろうなと思う。
絶対にあるね
だって、ありとあらゆるHENTAI性癖が、江戸にはみんな出揃っていて、参勤交代やら、大奥制度やらで、お金持ちの奥方様は、日々悶々とすごしていらしたのである。その貪欲さが、「自在置物」「生き人形」「からくり細工」の先端的超絶技巧を見逃すはずはないではないか。
だから、せっせと探すのだ。黒マラ白マラと数の子天上蚯蚓千匹子壷をね。(嘘)
おわり
参考リンク集
※田中優子氏である。「流態学」の。これは、きちんと著作全般を読んでみなければならないのかもしれないと思う。
trushnote.exblog.jp鈴木堅弘 春画からみる江戸の習俗について - 張形の表象を中心に (PDF) 京都精華大学紀要 第40号、2012年、NAID 40019491211