望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

負債論を読む (完) 奴隷と売春者

はじめに

 この記事は下記『負債論』を読んだ続きだ。だが、ブログそのものは続きではない。そして『負債論』についてのまとめでもない。

 

mochizuki.hatenablog.jp

まとめ

 筆者は『負債論』を資本主義社会の害悪を浮き彫りにし、現体制を転覆させる地ならしとして書いたのである。

 資本主義経済から脱するためには貨幣を棄てねばならない。貨幣を棄てるとは、「利子」を廃止し、「等価交換という意識」を変革することである。

 「快ー不快」原理に「損得勘定」が組み込まれて以来、人間は自らの尊厳まで、貨幣価値に売り渡してしまった。プライスレスであるべきものごとを、貨幣価値体系から掬うことで、くびり殺されそうになっている共産主義様式を復活させようというのが、穏当な共産主義者としての当面の結論である。

 私は資本主義の行く末を危ぶむ共産主義待望者だが、アナーキストではないし、アナーキズムのための運動にも魅力を感じない。だが、既に組織されている様々な運動が、資本主義社会をクラックし、それが資本ー国家ー民族の三角形を再強化させないのであるのならば、賛同を惜しまない。それはまた今度「『資本主義後の世界のために』を読んで(仮)」の記事でまとめる。

奴隷・売春婦 / 名誉・自由

奴隷と奴隷的

自由人が奴隷となる契機

1)強制力の法による
 a.戦争で降伏するか捕虜になる(正当な行為とされる)
 b.奇襲攻撃か誘拐の犠牲者となる
2)犯罪(負債を含む)に対する法的処罰
3)父権を通じて(子供、妻が売却されるなど)
4)自発的な自己売却を通じて

 上記リストの1)が気になった。「奴隷制」といえばこの「暴力による奴隷化」ではないかと考える。この項目には「負債」が絡まない。

名誉

 「負債論」における主要テーマである「名誉」は、「奴隷」とセットとでなければ意味をなさない。「奴隷」こそが「負債論」最大の論点なのである。だから、「負債」という観点から 1)が説明できないというのは、致命的である。

平等とは

 「奴隷制」は「人間の平等性」といった観点から取扱われるのが通例だ。これは「法の下の平等」ではなく、「自然法の下での平等」であるべきで、もって生まれたもので、誰にも奪うことのできない権利として守られなければならない。しかし、このように、「守られなければならない」と書かねばならない点に、「平等」の困難がある。

すり抜ける奴隷

 人間が人間として生きる権利とは、「経済問題」に属するからである。そして、「経済問題」としたところで、やはり1)はすり抜けてしまう。なぜならば、彼らは貧富をとわず、有無を言わせず奴隷とされるからである。

負債なき奴隷

 「名誉」は彼らが所属するコミュニティーの構成員が与える「信用」であった。ここまでのところに「経済」が入り込む余地はない。この名誉を「貨幣価値」として量ることが可能となったとき、「経済問題」となるのだ。

借金のカタとして、何を差し出すのか?

 担保として自らの体を差し出すとき、人間は「奴隷的」存在となるだろう。だが、それは「奴隷」ではない。なぜなら奴隷とよぶべきは1)の場合のみだからである。彼らには負債がない。だから返済することもできないのである。

売春婦と愛

 「売春婦は誰とでも寝る。それは貨幣が何とでも交換できるということと似ている」という暗喩が紹介されていた。だが、それは全くナンセンスだ。売春者は使用価値であり、貨幣は交換価値なのだから、そもそもレベルが違うのである。

商品化問題

 とはいえ、「奴隷」問題が「経済問題」からこぼれていたのと違い、「売春」問題は徹頭徹尾「経済」問題だ。そして「売春婦」の問題は「フェミニズム」の観点から語られることが多い。だが、資本主義への対抗措置として重要なことは「性の商品化」を、ではなく「愛の商品化」を阻止すべき、との原理である。

資本主義の論理、共産主義の倫理

 需要あるものを供給することは間違っていない。商品価値は高いうちに売るべきだということも正しい。ではなぜ、肉体を商品としてはいけないのか? だいたい、賃労働の全ては、自らを商品化することではないか。

 これが資本主義社会の論理であり、共産主義の倫理はこれを否定する。
※ 国民には納税の義務と勤労の義務が課せられている。これは「国民として生まれたことに対する負債を賃労働によって返済せよ」と憲法が定めているということなのである。

愛こそすべて

「愛」こそが共産主義にとっての最後の砦なのだ。貨幣を棄て、なおかつ闘争のない世界を実現するためには、人類のみにとどまらず、この世に存在するもの、かつて存在したもの、これから存在するであろうもの、これら「存在」の全てを慈しむ「愛」が不可欠だからだ。この「愛」なくして、システム構築をしたところで、必ず失敗する。

NAMは、LETSと籤引というシステムを備え、理論上は資本主義に対抗する組織になりうるはずであったが、組織化の過程で分解してしまった。後に、柄谷行人さんは、来るべき社会を「宗教的な互酬性を基本としたもの」と、分析を進めていた。つまりNAMに不足していたものは、「求心力」であり、教祖的な存在が必要だったのだと思う。皆が「未来」に希望が持てるビジョンを提示できる存在が、必要だ。

延命?

 ところで、資本主義は「偏在する共産主義」に寄生し吸血していたはずだ。ならば、共産主義を護る愛によって、資本主義もまた延命されるということになるのではないか?

愛は貨幣を駆逐する

 おそらくこの「愛」の濃度を高めることによって、寄生虫たる資本主義は駆逐可能なのだと考える。

理想を掲げる

 そして、資本主義を吸血しようとする似非共産主義に陥ることなく、相互扶助と宗教的共有ビジョンを備えた新たな社会を、理想として掲げ続けなければならないのである。

参考 抜粋ノートより

資本主義の起源の物語は

"市場の非人格的力による伝統は、共同体の段階的解体のものがたりではなく、信用の経済が利益の経済に転換させられた、という物語ではなく、
非人格的市場で、しばしば報復的な国家権力の侵入によってモラルのネットワークが段階的に変容させられてゆく物語なのだ。

イスラーム

法と政府 

 中国においては(儒者)が厳格な法というものには懐疑的で、開明的知識人の内面化した正義に依拠すべきと考えていたが、イスラームでは、預言者による法が全てであり、政府は必要悪でしかないと考えていた。なぜなら、政府は暴力であり、根本的社会の外部にあったからで、真に敬虔な者であれば、避けるべき制度であった。

 拡張戦争の信仰→安定的奴隷の流入→奴隷兵士への依存→信心深い者を軍隊に送ることを防ぐ=イスラーム信者が奴隷(負債)におちいらぬための方法=イスラーム法典=家父長制、微利の禁止

イスラーム教と商業

 イスラームに改宗すれば、商人や行政官が、自分以外の住民を負債懲役人におとしめる可能性におびえずに暮らせる。商人こそ、悪業を全て放棄し、国家に対抗するものとみなされた。

 商人は模範的存在。遠方への冒険をも敢行し、誰も傷つけず互恵的。

共同経営

 投資と経営の分別。信用による起業(信用=評判)、確定的賃金ではなく利潤の配分、労働差配も同じ(※企業組合の利点と欠点を検討すること)
 

イスラームの市場

 負債と奴隷制から解き放たれた市場は、人間の自由と共同体の連帯の最高の表現。国家の介入から根気強く防衛されるべき場。


 市場のメカニズムへのどのような政府の介入(妨害)も均しく冒涜的行為とみなされる=市場は神によって自己調整機構として設計されているからだ。(※ アダム・スミス「神の見えざる手」に類似)

 市場とは、端的に相互扶助(供給と需要のバランスをとる)という原理の発現でありそれに依拠している。ある種の基盤的コミュニズム上に基礎づけられているのみならず、それ自体が基盤的コミュニズムの拡張でもある。(握手契約と署名する者の誠実のみに裏付けられた紙の約束の世界)

貨幣

 貨幣は貨幣を獲得するために作られたのではない。
硬貨とは「価値」よりほかは一切の特色欠けているがゆえに、比較のための基本単位、シンボル、でありうる。
⇒有利子貸付は貨幣を自己目的化するがゆえに、違法である。

現状

 ただ、この純粋市場は、手段を択ばず物質的利益を争い、自己利益につき動かされた諸個人からなる世界(市場)にはなれなかった)

アダム・スミス

われわれが自分達の食事をとるのは、肉屋やパン屋の博愛心によるのではなくて、彼ら自身の利害にたいする彼らの関心による、我々が呼びかけるのは、彼らの博愛的な感情にたいしてではなく、彼らの自愛心にたいしてであり、われわれが彼らに語るのは、われわれ自身の必要性についてではなく、彼らの利益についてである。