望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

横断する想像力 ―短絡と迂回における滝沢カレンさん(という誤読)

はじめに

滝沢カレンさんの言語駆使能力に嫉妬する。

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 滝沢カレンさんの「日本語の独特な用法」に着目したブログは枚挙に暇がない。私がそこに屋上屋を架けるようなまねをする必要はないのだが、このブログ上に、滝沢カレンさんの名前を刻んでおきたいという下心を抑えきれなかった。

「さんま御殿」の印象について

 滝沢カレンさんを始めて知ったのは「さんま御殿」だった。そして私が普段見ている他の番組で滝沢さんを見ることはなかった。だから、私にとっての滝沢さんは「さんま御殿」での滝沢カレンさんだった。

その佇まいに感服する

 私が滝沢さんに感服するのは、「さんま御殿」で、滝沢さんが発言している時、ほぼ一語一語について、「笑い」や「指摘」がさしはさまれ、そのたびに話しは中断させられ、そこに冗長な注釈とまぜっかえしを受け、さんざん笑いものにされた後で、「ほいで」と続きを強要されるといった、まさに、話の腰を折られまくれのフルボッコ状態になるのにもかかわらず、その総攻撃の間、滝沢さんは、はにかんだような笑みを浮かべるのみで、苛立つでもなく、悲しむでもなく、テンションもそのまま、いいわけも、捕捉もせずに平然と、続きを話し始める、その佇まいにであった。

無明の不安?

 「さんま御殿」における滝沢カレンさんの話から感じたのは、圧倒的に語彙が片寄っており、その片寄った語彙を、異常に奔放な想像力による観念連合によって、時として、広辞苑の用法以上に、インパクトがあって生々しい「感じ」を伝えることに成功している、ということだ。

 言語は概念であり、世界とは概念化された自我である。

 滝沢カレンさんが、手中にしている「世界を照らす言葉」の圧倒的な偏在は、この世界に相当の「闇」を残しているのではないかと考えた。だが、滝沢カレンさんの態度に、畏れや不安を感じさせる不安定さは微塵もない。これは何故なのか? 

滝沢カレンさんの饒舌

 先ほど始めて、滝沢カレンさんのインスタグラムを見た。

www.instagram.com

キャッチボールの害

 私は、「会話」がもたらす弊害を知った。ダイアログよりモノログで生きる言語感覚というものは確実に存在すると知った。誰にもチャチャを入れられることなく綴られた彼女の言葉。それは、言語の上滑り状態ともいえる饒舌体で、ほとんど「お筆先」ともいえるとめどない観念連想の言祝ぎとして、ほとばしっていたのである。(これを書くのに、果たしてどのくらいの時間をかけているのだろう? 一気呵成に書きあげてくれているのなら想定内なのだが、もし、数時間じっくりと言葉を吟味しながらかかれていたのだとしたら、また全く違う話になるのだ)

参考:アンジュルム 佐々木莉佳子さんのブログ。
最近はふつうになっていますが、かつてのテンションには定評がありました。そしてこのブログは綿密なる推敲のもと時間をかけて書かれていたとのことです。

ameblo.jp

誤読

タイトルの放棄

 このインスタグラムの文書を最初に読んでいたら、このブログのタイトルは「滝沢カレンさんの饒舌体」とでも、なったかもしれない。つまり、私は、「さんま御殿」という会話のキャッチボールにおける、滝沢さんの語法にとまどう人々の反応から、滝沢カレンさんという人を完全に誤読していたのだということに気が付かされたのだ。

短絡と迂回

 想像力は、各分野を横断する。その自由度とは脳の回路形成の豊かさによると思う。

短絡する無知はバカであり、迂回できる無知は天才である。

 数少ない材料を、幾通りにも駆使する能力が想像力だ。(だから想像力とは荒唐無稽なことを思いつくことではない。と、これはまた別のお話)私は、滝沢カレンさんの力はこの、材料の少なさと豊かな想像力によるものと考えていたのである。

豊穣な語彙

 しかし、インスタグラムの文書を読めば、それが見当違いであることが明らかだ。彼女には圧倒的な語彙力があり、その語彙を効果的に扱う力がある。一般的用法にこだわらず、「フィットするか否か」という価値基準でそれら駆使できる力を「天才」と呼ぶことに躊躇はない。そこに哲学性などはない。滝沢カレンさんは、ポストモダニストとして表層を遊び倒す天賦の才をもっているのである。

佐藤優樹さんとの違い

 佐藤優樹さんは、少ない材料を幾通りにも使う天才だった。だが、その材料の少なさは「世界の闇。自我の闇」を浮き彫りにするため、彼女は常に荒ぶる。

 最近は、尾形春水さんが佐藤さんの語り相手になっているという。尾形さんは賢い人だ。佐藤さんの、時に迷子になる独白を、じっと聞いていてくれているだろう。佐藤さんは、自分の発言について他人から「それはこうでしょ?」と指摘されると「うん」といって引っ込んでしまうところがある。それは納得ではなく諦めなのではないかと思う。尾形さんは、佐藤さんの迷いを、一般常識で導くようなことはしないだろう。(それ以上に、何もしていない、という可能性もあるけれども)

 自分の感じていることを言語化することの困難を抱えて、佐藤さんは生きている。

他人は相対化できない

 滝沢カレンさんは、仲間達との席ではいつも「バカ」といわれているらしく、「バカ」扱いをされているという。また「さんま御殿」の一部出演者は、彼女の発言にいちいち「感心する」「天才的だと賞賛する」態度を示す。

どちらも「何様だ!」と思う。

そこに「闇」はあるか?

 滝沢カレンさんは、彼女を取り巻く表層世界をまばゆいばかりの語彙で捉え、装飾し、切り込み、伝える術に長けた人だ。

 そして、その言語組織は、「我」をいたずらに複雑化させない美点を備えている。

 彼女の安定力とは「闇」を意識しないところからくるのではないかと仮定する。

 「内面」が「虚偽」であるように「この世界の闇」もまたフィクションなのだ。それを意図的であれ無意識にであれ、確信している者は、存在に安定できるのではないかと考える。

おわりに

 他人にどう思われていようとも、彼女が構築した宇宙は磐石であり、我々は常に、彼女の世界のごく浅いところを訪れる観光客にすぎない。

そして

彼女のインスタにどっぷりと浸かろう。

参考ブログ

7090news.com