望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

Talk Free!

はじめに

ガキの使いやあらへんで』にトークコーナー復活とか。

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 見てなかったですけど、邪魔な演出だったのですね。定評があった万年筆に、金粉を塗りつけたくらい無駄。

 デビュー当時、「チンピラの立ち話」とこき下ろされながら、そのスタイルで漫才に革命を起こした二人です。「喫茶店の無駄話が巷に通用する派」を提唱する今田さん東野さんが、元祖と担ぐ鶴瓶さんが独演会を「落語」ではなく「話」と名づけるゆえんも、おそらく同じところにあります。

 「話」と「文」

漱石さん、横光さん

 漱石はあらゆる形式の「文」を書いた。と、柄谷さん、蓮見さんの『闘争のエチカ」にあります。「文」とはあらゆるジャンルを逸脱し、「小説」よりも「俳句」に近いものだと考えます。論説を持たず、ふと現われて消えていく描写のみの記述。自他を分かたない純粋小説(横光利一さん提唱)の先祖がえり。横光さんはそのために、「四人称」を工夫しなければならないといったとか。

純粋小説論 四人称 - Wikipedia より)

横光利一は「純粋小説論」(初出『改造』1935年)の中で「四人称の発明工夫をしない限り、表現の方法はない」と主張した。それは「自意識」つまり「自分を見る自分」という人称であると説明される。

...現代のように、一人の人間が人としての眼と、個人としての眼と、その個人を見る眼と、三様の眼を持って出現し始め、そうしてなお且つ作者としての眼さえ持った上に、しかもただ一途に頼んだ道徳や理智までが再び分解せられた今になって、何が美しきものであろうか。(中略)けれども、ここに作家の楽しみが新しく生れて来たのである。それはわれわれには、四人称の設定の自由が赦されているということだ。純粋小説はこの四人称を設定して、新しく人物を動かし進める可能の世界を実現していくことだ。まだ何人も企てぬ自由の天地にリアリティを与えることだ。...

横光利一、「純粋小説論」『愛の挨拶/馬車/純粋小説論』講談社文芸文庫、1993年、270頁

 

それって、もしかして多分、日本語の再帰的用法を、主格に工夫する?

日本語他動詞の再帰的用法について Reflexive Uses of Transitive Verbs in Japanese

「語り」と「混合人称」

 怪談などの「語り」では、「…でね、最後に残った独りがね、振り返ったときに、全身焼け爛れた赤いハイヒールの女の髪が絡みついてね、引きずられていっちゃったんだって」などという、超越論的人称がまかり通っているわけだし、もともと全ての文は「伝聞」なのだから「時間軸」に沿って「空間軸」が破綻しないような「個別視点」に囚われることはないと思います。

(作中で人称の主体がどんどん変わったり、複数の一人称の絡みあいで展開する小説などは、わりと多くありますね。べつに、混合人称だから悪文ということはないです。この世では、みんな「私」で生きているわけですから。ただし作者の混乱を持ち込んだ結果であれば、表に出してはいけません)

筋なんていらない肉の塊

 私は、「晩年」(太宰治さん)、「或る阿呆の一生」(芥川龍之介さん)。このアフォリズム集積体をこよなく愛する。すぐに読めて、拘束されることなく、それでいて公案として口中に転がし続けるビー玉の如き清涼感と、危機感と、異物感を備えている。

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昨今の流行は、ビルドゥングスロマーンばかりだ。

教養小説 - Wikipedia

 姑息なつじつまあわせを、「伏線」と尊ぶ風潮に同調できないでいる。それこそ作者あっての物語なのだから、伏線とか、どんでん返しとか、意外な犯人とか、そんなものは「技巧」の問題に過ぎない。そうした「設計」が無効となる彼岸をこそ、小説は目指すべきだし、そもそも現実世界とは「交通事故」(柄谷行人さん)の連続であるとの認識が欠落している。と、ここからはもういつもの話になってしまうから割愛……

「文」においては、「私」が「自然」に流れていって「中動態」をなしているものと推察する。ただ、これに関する本は、本日届く予定なので、また後日。

「漫才」

弁証法

基本的に、漫才は「テーマ」についての「対話」で展開します。ボケが、テーマに対して非常識な見解を述べ、それをツッコミが常識の側から指摘する、と。ここで行われているのは、「常識」に則った弁証法的討論で、ボケは、視聴者とは異質な「他者」として現われます。しかし、ボケにとってみれば、他の全てが「他者」であるという圧倒的少数派。常識を共有しないもの同士のすれ違いが、笑い産むわけです。

 この笑いは、「理解不能」から湧き起こるもので、「共通認識」という地盤が大地震に見舞われる振動にほかなりません。

二人の世界

 おぎやはぎさんの場合は、「ボケと同調」によって笑いを生んでいます。それは、おぎやはぎさん対視聴者という構図において、視聴者がツッコムべきところを、おぎやはぎさんがかもし出す「優しさ」が全てを包み込んでしまうので、「虐殺」ですら「微笑み」で流してしまえる世界が現出するのです。この優しさには「この世界に、たった二人」「お前を理解できるのは俺独り」という「孤絶」の感覚があります。この笑いに「憐れみ」が混じるのは、このせいかもしれません。

なんどでもいう「悪」であると

 私にとっての笑いとは麻痺であり、思考停止であり、恐怖の留保です。なので、私は「あるある」が大嫌いです。あの「笑い」は「帰属意識の強制」にすぎません。

フリートーク

これは「テーマ」を決めずに話すことですが、話とは必ず「○○についての話」です。それは意識が必ず「○○についての意識(『意識と本質』井筒俊彦さん)であるのと同じです。

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 従って、フリートークとは、トークテーマにこだわらず流転していくものと考えます。

のりおよしおさんのラディカルさ

のりおよしおさんの漫才がこの形式でしたが、観念連想テーマの羅列のみで進行するという点ではよりラディカルだったと思います。そこを推し進めていくと、『失われた時を求めて』のような漫才が生まれたかもしれませんが、そちらへ行くよりも、のりおさんがぶっ込むギャグの破壊力にかけた方向は正しかったとも思われます。漫才できちんとギャグ漫画を成立させた功労者ですね。

失われた時を求めて - Wikipedia

アドリブ

 テーマに固執するか否か以前に、フリートークのフリートークたる所以は、アドリブ性にあることは明白でしたが忘れていました。あらかじめ打ち合わせをせずに、その場のノリで展開するというスリリングさは、演者の意志や支配を超えて発展する可能性をもちます。それはつまり、思いもよらない場へ導いてくれるか、行き着きたくもない場へ置き去りにされるか、どこにもいけずいたたまれなくなるか、の三択になるでしょう。

 内村プロデュースにおけるアドリブコント回を見るにつけ、よくも悪くも、「ここでしか生じ得ない事故」だと実感できます。

 鶴瓶さんがずっと続けている「スジナシ」という番組については、何度か書いているので紹介まで。鶴瓶さんほど「フリー」という言葉を体現した落語家はいないでしょうね。チンチン出してもNHKだし。

支配したくもされたくもない

 今回のブログは、もっととりとめのない、アフォリズムから毒気を抜いた、つまりなにも言ってない話になる予定でしたが、案外テーマトークになってしまって、ごめんちゃいマリアでした。それでは、また。