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望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

漫才にする方法 ―漫才師の挑戦

テレビ 笑い

The MANZAI 2016を見た

フットボールアワーさんの、ツッコミボケがおもしろかった。

ボケとツッコミではなく、普通の話の中にボケの要素を無理やり見出してそこにツッコムという方法で、漫才にしていたこと。

ただ、この形式においては、普通の方を、ツッコミやすいように創作できる、フットボールアワーさんより、

謡曲にツッコむというナイツさんの方が、より過激であった。

ナイツさんの凄さ

ナイツさんのこの手の形式を、「俺東京さいぐだ~」で見たときの「何だコレ!」は、こんなことで漫才が作れるのか、という驚きだった。

普通⇒笑い

しかし、完全な有モノを使うという点を差し引いても、ナイツのツッコミはあまりにも月並みであった。やはり、ツッコミという形で普通から笑いへと突破していくのは難しいのかもしれない。ボケによる場合は、普通の方がツッコミと化して参加できるのだが、訳のわからないところへ突っ込まれた普通は、戸惑うことしかできない。笑いは、ツッコミボケの側になければ駄目だ。普通の戸惑いで笑いをとるのは、いじめである。

麒麟さんの毒

この手の失敗例として、以前見た、麒麟さんのネタを思い出す。町歩きかなにかで、饅頭やだか団子やだかを訪れたレポーターが、店の主人に行う、偏見に満ちたクレームの嵐。屁理屈で完膚なきまでにこき下ろされる人のよい主人のいたたまれなさ。最低であった。

ヘンなおじさん・およびでない

変な状況、ヘンな空気から生じる笑いを否定するのではない。むしろ常識がグラグラと揺らぐ状況における笑いを偏愛するといってもよい。だが、それをするのに「毒づく」必要は皆無だ。なぜならば、そのような「毒」そのものが無効になるような状況こそが、ヘンな空気なのであり、それは二つの「普通」という対等の関係の上に形作られねばならない。

全ては漫才に

爆笑問題さんが、各界の権威と対談したのをまとめた本があった

この本のあとがきで太田さんはこんなようなことを書いていた。(例によって、うろ覚え)

相手の知性に呑まれてしまって、漫才にすることができなかった。

もし次の機会があれば、今度こそ、全てを漫才にしてみせる。

ダウンタウンさん・鶴瓶さん・さんまさん・萩本さん

ダウンタウンさんの二人の凄いところは、浜田さんは真正面からのツッコミによって、松本さんは自在な角度からのボケによって、普通状況を即座に笑いへと変化させられるところだ。それは、鶴瓶さんがその存在そのものでその場を落語に変えてしまう域に近いのではないかと思う。

そしてその頂点にいるのは、かつては萩本欽一さんであり、今は明石家さんまさんなのだと思う。

おわりに

素人いじり、お年寄りいじり、動物いじり、モノぼけ(つっこみ)。漫才師は、普通に対して挑戦しつづけている。