6人救うのが正義
ほおっておくと5人死ぬ。別の1人を殺せば、その5人が助かるとき、救うべきは1人か5人か?
こういう思考実験で、「正義とは?」を問われたら、こう答える。
6人全員を救うことが正義だ
その先は正義と無関係
いやいや、それができないなかで、苦渋の決断をするにあたって、正義の選択とはなにかを問うているのですよ
といわれたら、こう答える。
選択的正義など、ない。
「○○主義」が正義だという誘導
どちらを選ぶか、なぜそちらを救うのか、という踏み絵で、自分が何主義なのかを明らかにさせ、「それがあなたの考える正義なのか」と総括させる。
正義の理念の問題が、「どちらを殺すことが正義か?」にすりかえられ、判断不能になったところで、「正解!」を示唆する。
だから、○○主義が正義なのだと。
功利主義
重ねて言いたい。それらは、正義が行われなかった後に繰り広げられる、「功利主義」の議論にすぎない。
統制的理念としての正義
柄谷行人さんがカントさんから取り出した「統制的理念」として、「正義」はある
それは、将来実現させるべき目標として、全人類が持ち続けなければならない倫理だ。
争いの過程において実現させるべき正義
その過程における「争い」は不可避である。
だが、自らが主張するモノが「正義だ」などと思い上がっていてはいけないのだ。自らの正義を安易に主張する活動は、必ず他の正義を抹殺しようとする。
ただ一つの正義理念を全人類が信奉するなどということはありえない。それは、遵守されるべき法として制定されるより他なく、教育によって根付かせていくしかないものだ。
正義の種
「正義」とは常に、実現すべき理想として人類を導くものでなくてはならない。
抽象的に聞こえるかもしれないが、どちらを殺すのが正義か、などという問題に応えさせることに、ではなく、そうした問題を考えるときに感じる困難の中にこそ、「正義」の理念は宿っているものと思う。