便概
"客観とは多数に共通の主観で、主観はその客観内にある。この客観が共同幻想(ユング)なら、科学的事実で対抗したって、単なる神話の書き換えにすぎない。そもそも神話を外から眺められる位置などない。神話を超えるには、神話を生きるしかない…… 神話を生きるって具体的には?"
主観と客観
客観とは主観であること
客観とは、自らが所属する共同体の総意であろうと、自らが判断するところの主観である。なぜならば、人は他者の主観(=客観)を感知することが不可能だからである。
他人が世界をどのように捉え、どのように考えているのかについてをそのままを知ることは、たとえテレパス能力があったとしても不可能なのである。テレパスであれば、音、光、匂い、味、触覚などのように、思念を感知することはできるだろう。だが、感知されたものは、脳によって分解整理判断されなければ、知覚を構成することができない。そして自らの脳を経由したことにより、それはもはや、相手の意見ではなく、相手の意見を私が解釈したものとなってしまうからだ。
従って、純然たる客観があったとしても、それをそのまま認識することはできない。客観とは主観である、とはこういうことである。
主観とは客観であること
主観とは、この世界に「我」として分節されて存在する構造体(人間など)が捉えた世界認識である。 「我」には、感知するための器官が備わっており、それを知覚する機構があり、それらを認識する能力を有し、それらをもって思考することができ、疑うことができ、形而上学を取扱うこともできる。
ただし、主観は、外部からの入力がなければ、何ひとつ生み出すことができない。「我」が自前で備えているものは、三兆個を超える体細胞一つ一つの「快ー不快の感覚」のみである。それらは、散逸構造体の一員として常時不安定(不快)である。
「我」とは、こうした細胞の集まりを纏った「何か」であり、主観とはその「何か」が「細胞の集まり」をもって学習した環境によって形成された、ある種の傾向のことである。
つまり、主観を形成しているのは、環境=客体 に他ならず、その意味で主観とは客観であるといえる。
客観は主観にあり、主観は客観で形成される。この入れ子構造を理解することが必要だ。
客観=共同幻想
客観内主観ということ
主客が相互に喰い合っているとしても、両者は対等の関係ではない。
主観は客観の中に浮いている気泡のようなものだ。なぜならば、主観は外圧によって辛うじてその形を保っているにすぎないからである。
また、主観は他者の主観をそのまま理解することができないことから、様々な主観が並置される場が主観の外にあると分かり、その場を「客観の場」とすることは、主観を拡張することよりも妥当だと思われるからである。
覚え:この時点で、「客観」と「主観」という対比が、「主体」と「客体」に置き換えられつつあることを明記しておかねばならない。主体による観念が主観であり、客体による観念が客観である。つまり、主観観や客観が能動する場として主体と客体がある。また、客観の場とは、客体そのものでなく、客体の存する場を指す。
「主観」が「客観」内に浮いている、との認識は、主観内に描かれる図式であり、その意味でこの章の模式図には合致しない。ここで「客観」を「純粋客観」、または「絶対客観」と読み替え、「ユング的共同幻想」に連結しなければならない。
ユング的共同幻想
「ユング的共同幻想」とは、個々の無意識のさらに深層には、全人類共通のある知覚(もしかしたら認識)がセットされたもので、「我」の外に広がっている、ものと理解している。つまり「祖型」「原型」「涅槃」「真理」といったひじょうに神話的、宗教的なコトなのである。
「客観」を「他人の観念」とするのは相対的「主客」関係においてであったが、「ユング的共同幻想」は、絶対的存在である。「主観」を成立させるための「客観」が深層意識あたりに蓄積されているとして、もっと深い、潜在意識や無意識、そのさらに奥へと探査していくと、いつしか「主観」という「我」の底が抜けて、全存在が連なる「ユング的共同幻想」へと到達する。そこからみれば、「客観」や「主観」はひじょうにローカルな塊にすぎないだろう。
こうして、主観を取り込んだ客観が、超越的主観へと帰結するとき、絶対的客観(ユング的共同幻想)は、万人に共通の原理として機能する。いや万人どころではない。あらゆる存在が共通言語をもつことになるのである。ここにおいて、初めて人は「客観」を経験することができる。(それは今我々の潜在意識の底で、発動している)
神話の書き換え
全存在に共通の言語
全存在に共通の言語。地域差や時間的な差のない宇宙に共通の規則。と書けば、それはユングを持ちだすまでもない「科学」がそうだ、との指摘を受けるかもしれない。
たしかに、数学、科学は、同じ公理系であれば、宇宙の時空どこへもっていっても正しく機能する。だからこそ、人類はこの世界の成り立ちについて深く研究することが可能なのである。
その過程においては、幾度もそれまでの常識を覆してきたし、量子理論によって再構築されるこの世界の複雑さと荒唐無稽さが万人の理解を超越していたとしても、そこから導き出された法則や、それによる予測が、理論の正しさを次々に証明し、モデルの正当性を主張しているのである。
よろしい。もはや、ユングの共同幻想は「科学」によって大半は肩代わりされた。 だが、科学が「心」を取扱えなければユングを完全に葬ることはできないのである。
私が期待しているのは、神話から神々を追放し、数式によって書き換えるなどという程度のことではない。科学が微分し尽くした世界を、再度一つにまとめ、
「我疑うがゆえに我あり」から
「我疑うがゆえに我なし」を経て
「我疑いもなく無し」をつまみ食いした後に
「我疑いなくあり」の境地まで、科学的に連れて行ってもらいたいのである。
そのためには、登場人物(神)をすげ替えただけの古臭い器では、不自由すぎる。
神話を生きること
この世界に『神話』を外から眺めることのできる位相はない。
『神話』装置はあらゆるものが「流態」(全てが片時もやすまず動き、その全てが相関を持つ)を為しているので、そこを出たつもりであっても、その擬似的行為そのものが、全体に影響を及ぼしてしまう。(不確定性原理)
数式をもって得られる解からは、主観性は可能な限り排除されている。だが、そのように検証できる範囲は、ひじょうに限られた部分でしかなく、針の穴から空を覗くようなものである。
科学は操作する
科学が客観的であるのは、まさにここにおいてである。
客観とは対象との分化を意味する。「ユング的共同幻想」の第二候補たる科学は、その客観的実証性を発揮することで、新たな主観を生み出してしまうのだ。
それは、多くの人々が数式をそのままで理解することができないことに起因している。とすれば、コンピュータならあるいは、この第二の共同幻想によるユートピアを享受できるのかもしれない。
神話の書き換えは頓挫する。人間は科学に白旗を挙げるだろうか。
人の心が数式で解けるようになったとしたら、ユートピア実現のための、洗脳的な措置が行われるに決まっている。それこそがディストピアでなくてなんだろうか。
観察ではなく溶けあうこと
人々は科学では救われない。だから我々は、世界を研究するのではなく、対象を観察するのではなく、神話を読むのではなく、世界と、対象と、神話と、溶け合い、そこで生きなくてはならない。
だが、具体的に「神話を生きる」とはどういう姿勢なのか?
それは現代においてひじょうに素朴で、エコで、それでいておそろしく反骨的な生き方ということになるのだろう。そして、それを具現するものとして最も近いものは、「出家」ということになる。
主客を出るとは、つまり、そういった態度を要求しているのだ。
未使用文書置場
- だから、「我」とは本質的に「不安」なのである。本来、分かたれるべきでなかったものが、脆弱な生命維持装置内部の一部となって、分かたれてあるからである。
- 人は誰も、他人の考えを検知することはできない。考えだけではない。あらゆる客体を、まず自分の内部にとりこみ、処理をしたうえでなければ、何一つ感知することはできず、感知できなければ、それにもとづく認識もなく、認識のないところに、世界はない。それは主体が消失しているのだともいえる。主客は絶対的な相対関係にある。(cf.柄谷行人 『探求Ⅰ』など)
- 免疫反応が、自己と非自己とを分別するために一度それを喰らわねばならないように、あらゆる物事を自らの血肉とした結果生じるアレルギー反応をもって、人は世界を認識し、価値判断を行っている。