はじめに:読み直さないスタイル
怠惰との謗りを受けようとも断固として読み直さないこと。浅田さんの言説は文化の全方位に渡って入り込み、全てを柘榴石と化している。
浅田さんのスタイル
著作を残さないことは、立つ鳥後を濁さずの精神。常に移動する速度至上主義の顕れ。時代を留めることなく加速させることのみを使命とする浅田さんのスタイルそのものだ。
だから、あえて読み返さない。浅田さんの言説とは偶然に出会うのが望ましい。とはいえ、ファンはコレクター気質でもある。過去を求めることは時代を留めること。天才には過去は不要だが、後を追いかける凡人は常に立ち止まり、赤い閃光を探してしまう。
粘度の高い流動体
変幻自在なのは、浅田さんなのではない。時代こそが変幻自在なのだ。時代の感性を信じると記した浅田さんは、広大な知識としなやかな知性とで、同時代=文化を一つの塊として捉える。その舳先にあるのは、芸術表現だから、浅田さんはよく、芸術家とのイベントを企てる。
好奇心と思考停止
浅田さんは、驚くということがあるのだろうか?
驚くという思考停止を、許すことができるだろうか?
知的好奇心にとっては、この世の全てが驚きである。しかしその驚きはたちどころに相対化されるだろう。なぜなら、世界の全ては巨大なゲル状を成し、全ての変化は流体論によって測定されるはずのものだからだ。完全に独立した物事などただの一つも存在しない。と同時に、それら総体に共通の目的もゴールも存在しはしない。
向かう先
時代はどこへ向かうのか? 浅田さんが時代に寄り添う姿勢は、ある意味、シャア=アズナブルの野望に近接する。
もし、ニュータイプの世の中が実現するのなら、見てみたい、と
その先に何があるのか。どこかへ誘導しようとしているのか?
つないで開く?
浅田さんがシンポジウムや、対談、基調講演などを行うときの、参加者や聴衆には思いも寄らない物事同士を鮮やかに関連付けてみせたり、まさしくその場の議論の『可能性の中心』を取り出してみせる手際の鮮やかさに、溜飲が下がる。
たとえ話
水道管ゲームをしている。
浅田さんは、複数の流入口もつ奇抜な継ぎ手、加圧装置と、思いも寄らないフィールドへ勢いよく放水する蛇口のカードなどを持っている。
神々の戯れ
浅田さんは、シンポジウムの経過を予め見越している。だから、展開は全て浅田さん手の内にある。思い通りにコトが進んだとき、浅田さんは楽しく遊べた、と思うのではないか。そして浅田さんが設定した地点にまで到達させられなかったときは残念がるだろう。絶妙なパスを送ったのに、受け止められない参加者を歯がゆく感じ、手がかかるなと、思うのかもしれない。
生テキスト論
浅田さんは、討論会の参加者の自由な発言を、自らの論文に引用することができる。論文とは、討論会自体のことだ。世界のあらゆるものはテキストなのである。たとえそれが、「生」であっても、浅田さんはコントロールできる。
だが、浅田さんをテキスト化することができる知性は、まだ現れていない。
まとめ
時代を歴史にしない。それが浅田彰さんのスタイルだからだ。
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