ゴールが見えないと、全力を出せないタイプなので。
マラソン大会では、「ラストスパートが早すぎる」という理由で、「怠けていたな」と叱責されて、正座させられたりしてた。
人生、長くない?
ただ、息しているだけの命なんて、自分にとっても不要だと思うし。
成し遂げたい何かを持っている人。
社会貢献している人。きちんと仕事をしてる人。子育てしているという理由。
多くの人に、生きることを望まれている人。
仕事の切れ目が金の切れ目。金の切れ目が命の切れ目。会社にとって、賃労働者は、経費でしかない。そこには「命」などという論点は微塵もない。
「貯金」=「命」それが現実だ。
仕事にやりがいを感じている人はいい。仕事=人生という人はいい。
仕事=生活費を稼ぐため という私のような労働者の場合、生活費をかせいでまで、この仕事をしたいのか? と自問する。
そして、そこまでして、生きる意味があるのか? と自問する。
「生きていれば、何かいいことあるかもしれない」と、欲を出して生きる。
「自分から動かなければ、何も得られるわけないんだよ」と、お題目を唱えたところで、何を得たいのだか検討もつかない。(ここで、出家システム発動。でも、独りで山に篭る気概はないの。)
生きることはシンプルだ。諦めることは悪いことじゃない、絶対に。諦めるなといったり、諦めが肝心といわれたり。時と場合によるというなら、何も決まってないのと同じことだ。
選択の自由
活躍できない人間のことは放っておいて、生活が立ちゆかなくなった時には選ばして欲しい。ワーキング・プア(思考停止、または、諦めない心) or 生活保護(最低限文化的な生活を保障してもらう)or 安楽死(easy going) 簡単に、事務的に。自由意志を尊重して。
簡単に、ゴールを設定できるようにしてもらいたい。
寝る前に飲んだら、そのまま静かに死ねる薬を、配ってもらいたい。
寿命一杯までいきることが幸せなのだとは思わない。
いつまで生きたか、なんて意味がない。
殺さないで生かすことを是とする価値観は、経済的に破綻している。(対価を払えるなら搾り取る。払えなければ先刻する。ドナーとしてなら保存する。以上)
quality of life は、全生涯に渡って追求されるべきである。
自由資本主義は、社会福祉国家であることを断念せざるをえなくなった時に、初めて、本質をあらわにするのだろう。
(貧困を保存しなければ、差益を確保できないのだから。ほどよい援助で生かさず殺さずを続けなければならない。)(労働者がとりうる最良の態度は、サボタージュだ。それはそのまま、ハンガーストライキとなり、ダイ・インとなって、本当の死となる)(非暴力・不服従とは、結局、命をかけた主張なのである)(世界のどこにも逃げ場はない)
よりよく生きる必要はない。
元凶は、「死後の曖昧さ」にある。
この世界を守り続ける必要はない。
元凶は、「生まれる前の曖昧さ」にある。
自由とは「自由に生きる」権利ではない。この経済形式下に、「自由」などありえないからだ。
だから自由とは「いつでも自由に死ねる」権利(=尊厳死)を持つことだ。(我々は、国家への納税義務について複数年契約をしているわけではないから。死ぬことを規制される理由はない)
がたがたいわずに「自殺」すればいい。
それは正しい。5年日記でも、10年日記でも、一世紀カレンダーでもいい。リマインダーに、印をつけるだけだ。自殺する日を。
その日までになすことを、リストにすればいい。お得意の、マインドマップでも、GDTでも、様々なメソッドを駆使して、悔いの残らない残りの人生を送る計画をたて、チェックボックスを埋めていけばいい。
立川談志は、いつからか、「2年契約制度」をとっていたという。とりあえず、2年分の計画しか立てない。その先は死んでいるかもしれないからと。
私はゴールが見えないと、本気をだせない。
それは、持久力がないせいだ。人生における持久力とは、貯金だ。この世界から「金」を取り出す能力を持たず、「人」をひきつける力を持たない人間にとっては、人生を時給換算して、その時給以下の生活レベルを維持することで、時間を引き延ばすしかないのだから。
宝くじが2億円あたれば、とりあえず、こういう文章は書かずに済むだろう。
それでも、残高0になるタイミングと、余命とのバランスに気をもむかもしれないから、やはり、苦しまずに死ねる薬は欲しいものだ。
苦しまずに死にたい。
それは贅沢だろうか?