しゃべりまくりですけど何か?
掲載されるやいなや、一大センセーションを巻き起こしたgigazine様の記事がありました。
2016年02月25日 21時00分00秒
gigazine.net 黙読するときに、声が聞こえない? それでどうやって読んでいるの? と思い、こんな感じで検索。
音読と黙読
脳内音声
内言語機能
それぞれ検索して上位の記事に目を通して、黙読してみよう!
いまさら、新しくブログネタにすることなんてなにもないやって、思えるはず。でも、しゃべる。
速読について
興味深かったのは、速読。
黙読の際、いちいち脳内で音声変換していては、速度が出ない。文字の形を見てとって理解するのでなければ、上達は見込めないんだそうだ。
私のように、黙読するとき確実に咽が動くタイプの人は、速読の修得には苦労するんだとか。べ、べつに今の生活に速読なんて必要ないんだからねっ。
さまざまなタイプ
困りますファインマンさん
で、この記事を読んで、まっさきに確認したくなったのはこの一冊。
『困ります,ファインマンさん』
岩波現代文庫 R.P.ファインマン 大貫昌子[訳]
2001年1月16日第一刷
その87p.「ワン・ツー・スリー、ワン・ツー・スリー」というお話。
以下に要約してみたり。
要約
プロローグ
ファインマン少年「考えることはつまり頭の中で自分相手にしゃべってるってだけのことだぜ」
バーニー・ウォーカー少年「車のクランクシャフト(複雑な形をしている)について説明することを考えてみろよ」
ファインマン少年「そうか。考えることは言葉だけじゃなく、視覚的なものも関わっているんだな」
① 一定の速度で60まで数えると、大体48秒程度だ。何度やっても、さほど誤差が出なかったが、数を数えずに一分たったと思うまで待つと、非常に不規則だった。なにが、「一定」の基準になっているのか?
② 階段ダッシュなどを繰り返して60まで数えても影響がない⇒心臓の鼓動でも体温でもない。
③ 60まで数えながら、他のものの数を数えても大丈夫。
数えるものが大量だったり、複雑だったりする場合も、パターン化すれば、両立できた。
※パターン化とは、例えば、靴下を数えるのに、正方形の頂点においていくとか、新聞の行数は3行×3+1で10行を繰り返す、といった方法。
④ しかし新聞や本の文章や単語をタイプしながらだと60まで数える時間が長くなった!
これは、難しい単語で引っかかっている間、勘定がお留守になるためだった。
⑤ いろいろ試した結果、おしゃべりしながら数えることだけは、どうしてもできなかった。
⑥これについて、ジョン・トゥキーは異論をとなえた。
「読みながら数えられるなんてありえない。しゃべりながらなら余裕!」
⑦双方の言い分を双方が証明してみせた。結果的には、双方の数え方が異なっていたと判明。
トゥキーは、数の書いてあるテープが動いていくのを目に浮かべていた。すでに見ているので、読むことが出来ないのだ。
対して、ファインマンは数を唱えているので、同時にしゃべることができなかった。
⑧ ファインマンは使っていない触角を用いて、指で60まで数えながら音読する練習をして、できるようになった。しかし、頭で、指が動く感触を想像しながら60まで数えつつ、しゃべることはできなかった。
エピローグ
ファインマンは数式の文字に色がついて見える。Jは薄いベージュ色。nはやや紫。xは濃褐色。
想像と想起の違いについて
上記の⑧「指の動きを想像しながらは成功しなかった」という点について、関連しそうな記事があった。
2014.09.03 WED 11:20 脳は想像と記憶とを区別している
想像とは、想起した記憶をコラージュすることなのか、それとも全く別の作業なのか?
「思考」が、「想起」なのか「想像」なのかを分類するのはたいへんだし、数を数えることが、今回の記事に関連しているとは限らないけど、頭の中で数を数えるとき、想像力は役に立たなかったんだな、ということはわかったね。
ちなみに、「思考」に関してはしゃべくりオンリーの私だけど、読書中や、思い出に関しては映像と音声のミックスだし、あーんなことやこぉーんなことを想像する場合には、ばっちり映像つきだよっ!
頭の中っておもしろいね
ちなみに、脳内で再生される音楽についての話題もたくさんでてきた。
私は、楽曲の無限ループ中には一切モノを考えることができない。普段の暮らしにおいても、BGMは一切不要。邪魔なの。
また、「字幕映画なのに、俳優がすべて日本語を話しているように記憶している問題」も興味深いけれど、これは記憶補正とかかな。
頭の中でしゃべってるといっても、鼓膜が震えている感触はない。多分、視覚型の人だって、芥川龍之介の『歯車』みたいにに現実世界と二重映しになってる人はいないと思う。処理系から入力系への逆流は無いんじゃないかと。その辺、幻聴や幻覚との違いなのかも。
ともあれ、さまざまな面で、脳内認識問題 はおもしろいね。
人は分かり合えるの?
視覚優先の人の中にも、文字の人、(この文字のフォントについての話題もおもしろい)具象的風景の人、抽象図形の人なんかに分かれるらしい。
聴覚優先の人の場合の、デ フォルトの声色は誰? や、目の前のテキストを読んでいる感じの人、しゃべったことがテキストになっていく人なんかがいるという。さらに、動画の人。写真の人、胃袋が反応する人など、バリエーションは豊富です。
だけど、両親と子供の間で、このあたりが食い違うと、躾や信頼関係に多大な悪影響を及ぼす場合もあるんだって。
Visual Note-taking
で、一時、導入しようと思っていたVisual Noteだったけど、
「人は言葉ではなく、絵で考えているでしょう」(ドヤ!)
という前提で、そもそも駄目ジャン! 言葉を矢印などでつないでいくのがせいぜい。イラストなんて書いたこと無かったし、そもそも私の思考に、ビジュアルは登場しないのだ。だから、接続詞を記号に置き換える程度が身の丈にあっているのだ。だから、マンダラー トはとても使いやすいのだ。
とはいえ、時折ノートにイラストをいれると、そこからまた新たな考えが浮かんだりもするので、全く不向きというわけではないはず、多分。
「思考」と 「想像」との狭間をぶらんぶらン揺れ動いている感じもいいネ。
共感覚の導入
さらに、上記に関連する、こんな記事がありました。
gigazine.net 先ほどのファインマンさんも、字に色がついてみえる共感覚の持ち主でした。
共感覚というのは、ざっくりいって、スパークが漏電して他まで刺激してしまうってことだ。
いいな。共感覚。味が尖っているとか、黄色い悲鳴とか。音が見えて、光が聞こえる。時間を見るというのは、カレンダーみたいのが帯状になって自分を取り巻いているのが見えるんだそうで。太陽暦、太陰暦、マヤ暦とか、普段使っている暦によって見える帯もかわっていたのかもしれないな、なんて。
純粋思考?
ところで、思考というものは、どうしても「物」と結びつかねば、形を成さぬ。だって、純粋思考、媒体を必要としない情報、なんて形態を、捕まえる感覚器は備わってないんじゃないかと。
第六感? fMRIとかで証明してくれれば、考慮するけど…
ともかく、思考はなんらかの感覚と結びつかねば、発生しないし、展開しないし、接合できないはず。だけども一方そのために、結びついた感覚に制限されるって面もあるわけなので、できれば縛られたくないのも事実。
そこで、共感覚。
一つに縛られるのはいやだけど、五つに縛られたら、五倍自由なの? 不自由なの? はおいといて。
思考の形式を分けているのは、もしかしたら、海馬辺りの微妙な配線の位置関係なんじゃないかと思うの。スパーク感電しやすい部位(=感覚の認知部位)が、あるとか。「思考」が先か、「認知」が先か、はまた別のお話。
LSDとか
70年代サイケの時代。薬物によるトリップは、世界がありのままではないんだってことを生で体験して、あらゆる垣根を越えようとしていた。freedom!
その何万年も前に、さまざまな植物や無限ともおもえる修練によって、世界の底を破る試みは、なされてきた。
人は「思考」によってそれを知り「思考」を焼き切ることでそれを超えようとした。なんつって。
例えば、それらが「脳内」で完結できるものであるなら、きっと目指したところは、全ての感覚をリンクさせる「全-共感覚」ともいえる体験ではなかっただろうか。これは、いいものだ。薬物の摂取だけでは多分そのごく一部しか体験できなかったのだろうけども、あれだけはまるんだから。全部決まったら、そりゃもう戻ってこられないんじゃないかな。
思考は分別知じゃないの?
問題は、そこ。思考によって超えるっていっても、大抵の思考は超えないための思考だから、そこんとこよろしく。さんざんこねくりまわした挙句に、破れた目から見えるアレ的なものを求めているわけですから。
瞑想・観想の到達点とは
で、今回の着地点は、「密教的瞑想は、共感覚を起こす技術じゃないか」だ。
あらゆる宗教は偶像禁止、のワリには、シンボルがないとかっこうがつかない。だから様々な神仏の形があって、瞑想によってそれらの姿に集中するという方法がよくとられている。いずれは、それらの具象的イメージからは離れて、様々な光の体験になっていくけど、その光は、意識によって現れるのであって、思考によるわけではないのです。
思考によって、精神を外して、心を抜けて、身体から意識へとつらなる旅は、全ての感覚をつきぬけたところにあるよ。ま、とりあえず、全-共感覚までで、新五合目って感じ。
阿字観から、五相成身観へ。眼前に広がるまばゆいイメージに、自らを投げ入れる感覚。しびれますね。でももっとあるよ。
チベット密教においては、光によるマンダラが、胸からマテリアルとして出現するのだとか。意識と物の境界を越えることが、瞑想の最終関門なのでしょう。そしてさらにその先へ。というところは、いずれまた。
《参考》『ブッダの箱舟』中沢新一・夢枕獏 他 河出文庫文藝コレクションをぜひ。
咽枯れた
もちろん、今回のブログ記事も、頭の中で叫びながらキーボードを打っているわけ。ワープロが手に入るまで、脳内しゃべりの速度に手がついてこなくて、苦労したなぁ。なにしろ、判読不能。手帳に惹かれた波線や点などを凝視しながら、過去の自分の声を探す毎日。手書き主義にもどった現在、そんなもどかしさもまた、乙なもの。