望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

下手なやつぁ~ いごつつしめってんだな(立川談志)

理想の囲碁

 碁盤は、∞×∞じゃないといけない。この∞記号の使い方をちゃんと学んでいないけれど、1+1+1+……で満たされるはずの∞ではないほうの∞じゃないといけない。そうでないと、19×19でも、300×300でも、2×2でも、同じことになる。

 19×19=361に落ち着いた理由は検索すれば出てくる。中国の見立て呪術文化ならでは、という感じ。有限を抜け出すためのシンボル頼みだ、きっと。

デカルト座標に"big bang" でチョコボール

 囲碁がすごいのは、「均質な平面」に「無個性な石=物理的〈点〉」を「置く」だけ、というところ。これはもう、ビッグバン。つまり宇宙誕生を模しているのにきまっている。(領地陣取りゲームなら、地勢情報が不可欠なはず。そこを科学的抽象化したら陣取りは無意味だ)
 デカルト座標上に突如として石(=特異点 =不均衡)が生じ、その重力により座標がひずむ。次々と石が生じると、それぞれの重力波が干渉しあい、石と石に関係性が生じる。増えていく石の間で結合、切断が生じ塊ができていく。(コアラのマーチを塊にするには、相当ふらないといけないらしいが、(【衝撃事実】コアラのマーチを30分以上振り続けると「巨大なチョコボール」になることが判明! | ロケットニュース24)碁盤においてはただ石が増えていくだけで、塊ができていく)

将棋は人間業だ

 将棋は、人知奸計策謀の技だ。駒の影響度は効き筋として明瞭。将棋盤も碁盤と同じ均質な平面上で開催されるが、碁石一つの重力でぐらぐらになるような不安定さは無い。将棋盤に、山や谷や川や森などを配置して遊ぶことはできる。(むしろそうすることが実践向きでさえあるが、まず不確定要素の多い地勢は無視して、異なる特性を持つ戦力を、局地戦において、どのように組み合わせるかを、訓練する)そういう地政学は将棋向きだ。だが、すべてが没個性的であらねばならない囲碁においては、物理学こそがふさわしいと思う。

囲碁の哲学だから

 皇室儀式においても、深曾木の儀(ナゼ、碁盤が宇宙なのか?|がおーのママのブログ)というものがあるそうで、それは、至極もっともなことなのでございます。

アニメ化

 将棋は動きが重要。だが囲碁は配置が全てだ。アニメーションにすると、将棋はそれぞれの駒が動いてにらみ合ったり、躊躇したり、逃げたり、男気を見せたりというドラマが生まれるが、囲碁はポンポンと石が増えていくだけ。まるで教育テレビだ。この点から、将棋は移動する競技であり、囲碁は置かれる競技である。将棋はドラマであり、囲碁は教養だということがはっきりする。

当たり前のことだ。

だが、この当たり前に、囲碁の凄まじさを感じ、とてつもなく惹かれる。

分かたれたモノの悲哀

 移動は、分割によって生じる。そして分割が時間を召還しドラマを生む。将棋はそこで行われる戦いだ。

悟りの碁

 囲碁は移動しない。その意味で「共時性」を志向している。だから本来、石を置く必要すらない。対局にあたり、先手が石を置かない。持ち時間を使い切る。そして後手は勝利を辞退する。勝者なし。敗者なし。そのとき、碁盤を分割していた19×19のラインも消滅しているだろうし、対局者も立会人もスポンサーも観客も消滅しているだろう。それが理想の囲碁だ。

だから、おもしろい。

へんな結論

 そのうえで興味深いのは、将棋も囲碁も、手番が交互であることと、同時に同じ場所を占めることができないことである。これは将棋では当然のことだ。(ところで、幼いころ、「周り将棋」の亜種で、「おんぶ将棋」というルールがあった。それは、先行する駒と同じマスに止まった場合は、相手の駒におんぶをしてもらって、相手の手番にも一緒に進むことができるというものだ。((一方、「埋葬将棋」では、相手と同じマスか、相手を追い抜いた場合、抜かれた駒は冥界(一ます内側)へ埋葬され、内側を回り続けなければならなくなる。復活は、相手の隣に並ぶことができた場合、入れ替わることができる。冥界で抜かれた場合はさらに内側へ送り込まれ、5五に追いやられたら、復活不能となる))

 だが囲碁においては、この世のルールを適用する必要はない気がする。この宇宙で囲碁は生まれたが、囲碁によって、この宇宙が生まれたわけではないからだ……へんな結論だ。

量子コンピュータ共時的世界の夢を見るか

 白と黒を重ね合わせてよいとすれば、それは量子コンピュータに近似する。∞の碁盤におこる重力波の相関の全てを網羅した計算が可能となる。暗号は無意味であり、人の生死、一国の繁忙、地球の行く末などは、立ちどころに予言される。つまり、「共時性的世界」の実現なのである。

 早速、あの石に適度なくぼみをつけて、上に石を載せやすいように改良しなければならない。そして、演算結果が明らかになるまで、碁盤は隠されていなければならない。

やはりへんな結論

 以上から導き出される存在論的に正しい囲碁は、密閉された碁盤に石をザラザラと流し込んだ後、箱から出す。という作業になる。なるほど、囲碁とはつまり、量子コンピューターのようなものだったのだ。