望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

フル・フロンタルは「器」だといったので、帝都物語の加藤などが召喚されたこと

機動戦士ガンダムUC』の最終話が公開間近ですね

1.「器」であること

フル・フロンタルの自己定義

なので、改めて過去の6話を見直していて、フル・フロンタルのこんな発言が気にかかりました。

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(私は自分を)「ジオンの理想を受け継ぐ者たちの意志を受け入れる器」(だと考えている)だから、皆がそう望むのなら、自分は「シャア・アズナブル」にもなる、のだと。

 Ζの頃を彷彿とさせる言葉だなぁ、と当初は懐かしく感じていましたが、どうもこれは違うのではないかとの思いが沸き起こりました。クワトロ・バジーナは、「シャア・アズナブルにでもなる」などとは言わなかった。そこには、彼の「恥」の感覚がありました。クワトロ・バジーナは、ダカールで、全世界の人が見るテレビカメラにむかって、自分がかつて「赤い彗星」と呼ばれていた男であることを、自ら明かすまで、自らの偽名と、そのように逡巡している自らを、恥じていたのだと思います。

 その意味で、フル・フロンタルは、全裸でもないのに、「全裸で民意の最前線にある」と何の臆面もなくイケシャアシャアと宣言できてしまうし、ただの「器」だから、みなの意志のままにある。と厚顔無恥な政治家のようなことを言える、恥知らずな男なのだと思うのです。

「器」は盛られる中身を引き立たせなければならない。いや、彼のいう「器」こそが仏教でいうところの、「器世界」なのだとでも言いたげなほどの尊大さすら感じさせます。そして、その中身というのが、「理想と現実とのもっとも妥当と思われる折衷案」であるといいながら、実は「人類」に対する絶望を前提とし、将来的には合法的に独裁者を誕生させることが可能な仕組みを整備するところにあったのだと思われるのでした。

逆襲のシャアー』では「エコロジー思想的地球人類殲滅計画』「1年戦争」時は、ジオン・ダイクンの遺志実現としての「ニュータイプの世界」を見てみたい」がための、『ザビ家打倒計画』

 理想の実現とは、純粋であればあるほど過激なものとなるのでしょう。だから、フル・フロンタルの不純な計画を聞いたミネバ・ザビは、「私のバイオリンを褒めてくれたシャアは、お前のような空っぽの人間ではなかった」と的確な指摘ができたのです。少年少女の純粋な理想と、大人の現実という政治。ガンダムとはこの対立を描き続けてきたのではなかったでしょうか。

 と、ガンダムシリーズについてはさまざまなとらえ方があることですし、今回のブログの趣旨からはいささか脱線いたしましたので、軌道修正します。

2.「器」の「器」について

①『帝都物語加藤保憲と「仕事人」との差異

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 彼は自身を「平将門の怨霊により帝都を破壊せんとする者」と定義しています。さらにのちには、「まつろわぬ者どもの怨念が集まったもの」とも「都会の悲しみ、恨みの念が作り上げた存在」とも言っているのです。つまり、加藤もまた、そうした者たちの「器」なのです。

 彼が盛られた、託された内容は、やはり「人の思い」でした。そしてこの場合それは「帝都への恨み」ということになっています。加藤は復讐の鬼なのです。平井保昌や幸田露伴などの調査から、そもそも彼の生まれ育ちに「復讐者」となる資質が備わっていたのだと考えられています。「虐げられし者」の「代表・代弁者」「恨みをはらす者」としてRe-Birthした魔人。『帝都大戦』では、死者の山の頂点に屹立する加藤の印象的な場面があったように記憶しています。

 届かぬ叫びをあげた者たちの叫びが、加藤を幾度でも甦らせ、加藤という存在は、それらの思いを喚起し収集し続けるのです。それが、加藤という存在の全てなのです。それはつまり、加藤がそうした存在でありたいと願ったということでもあるのです。そして、そういう存在であることに倦み疲れたのであれば、自分が自分であるという「我」を捨て去るよりほかありません。はらせぬ恨みを、お金ではらす「仕事人」は、言葉通り「仕事」です。

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 加藤は、頼まれてもいないのに、率先して、無料で、恨みをはらします。なぜなら、それこそが自らの全存在の必要条件であって、それにより生き、生かされているからです。

 フル・フロンタルの「器」に盛られていたものは、彼の全存在をかけるにしては、あまりにも、矮小ではなかったでしょうか。それとも、彼の「器」はその程度だということだったのでしょうか。加藤も結局は、帝都破壊を実現することはできませんでした。しかし、ある意味で、彼の過激さとは、純粋さであったのだと思います。愚直なほどにまっすぐ、彼を生かす「思念」に殉じていたのですから。

②『氷菓』2号 関谷純の叫び

「届かぬ叫びをあげた者」として、関谷純の言葉を思い起こしました。

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 彼は、大人しく、真面目な学生でした。頼まれると断れないお人よしでした。それが、彼の「器」であり、彼はそこに分不相応な中身を盛られて、失意のうちに、学校を去ることになりました。いいえ、実際には、彼の器に「全学」の総意を載せるだけの大きさはありませんでした。だから彼はそれを、無理やり背負うしかなかった。だから、「これは英雄譚などではなかった」のです。そして、その果実のみを手にした者たちは、関谷純の存在を、「カンヤ祭」という伝説として祭ったのです。その構図は、祟り神をお祭りする将門の首塚などと似ていました。しかし、もちろん関谷純は、だれにも畏れられおらず、復讐を企てるなどということはありえないことだったのです。つまり彼はそれほどまでに、舐められていたということになります。

 氷菓2号の表紙に残した叫びについて、後年、彼は、まだ幼かった千反田えるを恐ろしさで泣きじゃくらせるほどの思いとして、説明しています。

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「強くなれ。弱いままなら、悲鳴も上げられなくなる時がくる」これを聞いた彼女は「生きたまま死ぬおそろしさ」に号泣したのでした。

 多数に無理やり「器」とさせられた者の悲しみとでも申しましょうか。

ジャンヌダルクという器

彼女は「神の声」を聴いて「器」となり、使い捨てられました。

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 史実は詳しくないのですが、彼女の登場から死に至る期間には、それを望む者達とその器としての彼女、という残酷な構図を感じさせられます。加藤保憲的登場、関谷純的結末。そしてその間の「民衆の意志を呼び覚まし、束ね、現実へ放つ」という機能は、「イタコ」のようだったのではないかと思われます。

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 それを望む者がいれば、望むように在らしめる、という存在。その点で、フル・フロンタルは「イタコ」に近いのかもしれません。ただ、そこに口寄せされる相手が、「権力と金の亡者」であった、ということは、おおきな違いですけれども。

3.誰のための器なのか

①国民のため?

 器が受け止めるべきは、大衆の理想なのでしょうか?そのためには、それだけの「器」でなければ務まりません。そしてなによりも、器は民意を取捨選択してはなりません。

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 彼は選挙によって登場しました。民主主義は、国民それぞれが思いを託せる器を選ぶしくみです。ただ、全国民全員の思いを実現可能な制度に、人類は到達していません。結果、多数決制が採用され、選ばれた器以外は、中身ごと破棄されます。不平分子は粛清されるという、過激な民主主義。つまり、独裁は常に可能というわけです。国民のため、世界のために、よかれと思って様々な方策を実施する延長に、戦争がありました。まさに、フル・フロンタルのしていることです。

②大切な人のため

 万人の器となる。そんなことが可能な「器」をもった存在なんてないのではないでしょうか。

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 ルパン三世は、囚われの王女クラリスに言いました。

「ああ、女の子が信じてさえくれれば泥棒は空を飛ぶことだって、湖の水を飲み干すことだってできるのに」

 彼は、クラリスを助けたいと思い、それがクラリスの希望となることを願い、その希望を実現させるため、彼女の「器」になろうと言ったのです。つまり、彼女の意志を具現する機構です。その信頼にこたえたいという使命感が、実現へ邁進する原動力となるのです。Ζガンダムは、人の意志を力にかえるマシンであり、ニューガンダムが、伊達じゃない理由も、大切な人(達)の(同じ)思いを力にかえて具現化できたからです。しかし、あくまでもそれは、パイロットである、カミーユ・ビダンや、アムロ・レイと「同じ思い」「賛同できる意志」でなければなりません。アクシズショックといわれる強い光が、その美しい体現でした。

4.人は判りあえる?

 しかし、そこには選別が存在します。「違う思い」「賛同できない意志」を排除するための戦いが、発生するのです。

 ジオン・ダイクンが提唱した「ニュータイプ」の定義は、世界と合一した存在といえるでしょう。初めて見る機器の仕組みが全てわかり、時間や空間といった「距離」が「認識」の障害とならない、無論、自分と他人といった区別もなくなり、互いに判りあえる存在。仏教でいう「覚醒した者」に近い存在。理想を理想のまま実現できる者達として期待されていたのです。ところが、ガンダムシリーズにおいては戦争の道具としての能力しか現れていません。

 戦争が「大きな一つの器だけの世界の実現のため」だというのは、詭弁です。戦争は分節しか生み出さないのですから。

「人の革新」はまだ遠い。今はまだ、「器」を選ぶ時代です。そんななか、「器」に選ばれるような状況にだけは、陥りたくないものだと、思います。(以上)