さよなら絶望先生 はみんないい
1.アニメ版での世界観拡張
希望先生(中村雅俊がCMでやっていた)→絶望先生→絶望→太宰治(心中好き)=昭和初期の時代背景→江戸川乱歩の猟奇=エログロヌード
このテイストを徹底的に取り入れた作画が、とても好きです。
猟奇の例
大正昭和的エロの例
2.絶望ガールズがみんなよい
ギャグ漫画の命は、やはりギャグ。ギャグって、いわゆるお約束で、それを確立させるには、ゆるぎない属性設定が不可欠。それぞれの個性から、社会世相を斬る、というスタイルですが、あまりに突出した個性(性格付け)ゆえ、そこから見る世相そのものが歪んでしまう、というところが、とても好きです。そしてみんな、先生が好きで、先生によりそっていくのです。
3.メタ・ストーリーなところがよい
世相を斬るネタが主なので、作中には必ず「現実社会」が導入されます。その際、背景に箇条書きされたり、極度にポンチ絵化されたりします。つまり、作中世界との完全な統一を拒絶して、いわば外からそれらを眺める態をよそおうのです。現実世界から流入してくる「絶望」が支配する作中世界で、その絶望をカリカチュアしながら、けっして、皮相的ではなく、突き抜けた明るさで昇華していく。このヒューモアが、希望となるのではないでしょうか。
そして、その絶望先生の絶望によって成立している世界に生きる登場人物たちは、ギャグ漫画特有の、つながりを無視した場面転換や、無茶ブリ、爆破落ち、などを、積極的に受けいれます。
彼女たちは、ここが作中世界であることを知り、その中で生きるということを肯定的に受け入れているのです。
だからこそ、自分たちの住む世界において、作画がまったく変わってしまったり、声優の取り換えっこをしてみたり、まったく意味不明の言葉を使い続けてみたりといった、従来はタブーであったはずの、アニメーション演出をも、登場人物自らが楽しんでしまうことができるのです。
4.そしてギャグ小説を夢想する
メタ・ストーリーであること。それは小説との近接を意味します。階層をずらすということは、原型に対する批評という性質を持つことになるからです。小説は、現実に寄り添って、物語を批評する位置に立たねばなりません(と思います)。現実の物語化に寄与することは、悪です。人は誰もが同じ成功譚を生きたいと願っているのかもしれませんが、それが中途半端にしかなし得ないという事実性に焦点をあてることこそが、小説の小説たる所以なのです(と思います)。
で、私はこのギャグ漫画の性質がもつ自在な批評性がうらやましい、という話なのです。端的にいえば、文章表現上、「お約束の天丼」や、「つながりを無視した場面転換」などが、導入しづらいということです。漫画はいい。アニメもいい。映画もなんとかなる。絵画にもあるし、音楽でもそれは可能です。しかし、文章表現において、それを実現する場合、電波系の匂いがしてきてしまうのです。批評性ではなく、独善性が、叙事的ではなく叙情的になりやすいのです。
短いセンテンスを書き連ねる、アフォリズムでは、前後のつながりがあいまいになります。絶望先生において、必ず挿入される
「いたんですか」「いましたよ……ずっと」や、
(扉がちゃ)「せんせ♡」「小森さん。出席っと」や、
「ぜつぼーしたぁぁぁ!」に至るキメカットなどは、
小説で、どんな風にあらわせるでしょう。そもそも、こうした欲望は、小説から逸脱したものなのでしょうか。いえ。きっと小説は、もっと、テキトーなはず(と思います)。
5.とりあえず爆笑問題へ
支離滅裂、荒唐無稽、不思議、奇妙。そういった小説はありますが、ギャグ漫画に対応するギャグ小説というものを、私はまだ読んだことがありません。
爆笑問題の本における書いた漫才は、ちょっと似ている気もするのですが。
話し言葉と書き言葉、地の文と会話文、人称の問題など。検討課題は多いですね。
読んだときに、読者の理解の上で、ギャグ漫画として成立する文章とは? ライトノベルにおける、挿絵というにはあまりにも膨大な挿絵の使用とか、ローレンス・スターン以来使い古されているけれども、なんとなく新しいっぽいからと安易に採用されやすい「活字遊び」なども、おそらく、文字と文字の連なりの強固さから逃れようという試みなのでしょう。苦闘は続くです。
6.おまけ 伏線と作戦
私がこの作品が好きな理由が「メタ・ストーリ」だから、とすると、原作における最大事件、最終回前の驚異的な伏線回収は、実は、あんまり好ましくないものでした。もちろん、そこにいたるまでの周到さは、およそ300回の連載、しかもストーリー漫画ではなく、ギャグ漫画であったという点からして、拍手喝采な労作なのです。
ただ、それは「物語」の「付録」でしかないことは、まぎれもない事実です(と思います)。きれいに終わる。そのための準備を、300回のギャグ回にまき散らし、明らかにされた時点から、振り返ってみれば、初回から、その伏線がちりばめてあった、と。
この漫画で、そういう伏線を用意しておくことそのものの批評性は、あります。
ですが、忘れてならないのは、作者が作品を書いている以上、伏線を仕込むことにも、回収することにも、困難はないのです。
ミステリーで、複雑な事件を解決する。読者は、探偵が推理の論拠とした事実が文章として明示してあることを指摘され、すがすがしさを覚えるかもしれません。そして、この探偵の推理力に脱帽するかもしれません。ですが、それは作者がいるんですから当然なのです。作者が心を砕くのは、探偵によってそれが手がかりだったと、知らせるまで、読者には、それと気づかれないように、文書に仕込むことなのです。
私は、当たり前のことを言っています。
では、作者が存在しない場合、つまり、「現実、事実」に寄り添って考えてみた場合、帰結の伏線というものは、どのようにありうるでしょう。
たとえばだれかと結婚する。その結婚にいたる過程を振り返ってみるとき、そこには「伏線」が見いだされてくる。それは「運命的」と呼んでいるかもしれません。
また、「オレオレ詐欺」で、お母さんが、お金を渡すまでの間に容易されたシナリオにちりばめられたイベントって、息子が窮地に陥っている、ということを信じさせるための「伏線」です。大きくいって、一般的には「作戦」でしょうか。
結果から振り返る。または、望む結果を得るためのもの。こういった「物語」につく「おまけ」みたいなものは、好きじゃないんです。メタ・ストーリーとしては、そして小説としては、この「伏線」をもずらして、「フラグが立った」という程度に遊んでしまいたいものです。
ゲームにおいて、バグ(処理落ち)を前提にクリアが可能である、というものがあるそうです。このバグはクリアのための「伏線」として機能していることになります(と思います)。
こういう「伏線」は好きです。たとえば、長く書き連ねている小説が、袋小路に陥った場合、これまでに書いた文章を綿密に検討し、穴を探し、誤字脱字、人名間違いやなんかを、「あ、これわざとってことで」と抜け道に使ったりする。書き直すのではなく、書き続けることで、すでに書き終えた部分のミスを、正当化していく、こういうのが好きです。(これはかなりの腕力が必要ですが)
現実生活において、その都度、何が伏線となるのかを知ることはできません。そして、振り返ってみれば伏線がいたるところに見いだされます。あらかじめ、結末のために忍ばせる伏線なんて、たんなる演出にすぎません(と思っています)。うまくやってくれれば、感動も生まれますが、たかだか感動にすぎません。
絶望したぁ~。伏線回収に回収されたことに、絶望したぁ~! と、糸色望先生は叫んでくださるでしょうか。
注意)こう書いておりますが、私も感動したし、周囲に絶賛しているんです。本当です。
参考:「ギャグ小説」については、主にライトノベル系のHPで、発表、検討が行われていました。作者の立場からは、「会話」のおもしろさを、追及する方が多く、既存作品から「ギャグ小説」を挙げる場合の条件は、「(広義の)笑える小説」とする捉え方が主流のようでした。
また、伏線についての話し合いが行われていたHPがありましたので、紹介しておきます。
HP:小説がかけない 伏線と前フリの違いってなんなの?