0.キッドナップ・ブルース を見た。
そして、芥川龍之介を思い出だした。
酔中夢書 KAZUKO HIDAI 『侏儒の言葉』より
http://www.shodo.co.jp/blog/hidai2010/2010/04/post-45.html
1.キッドナップ・ブルースについて
1-1 見た理由 【タモリさんのPVだから】
タモリさんが出ているので、見た。「今夜は最高」の頃に、集っていた人々がみんなで、タモリさんのPVをつくろう、というようなノリだろうか。
作中の森田一義はバンドマン。いつも物静かで、つかの間言葉を交わす人々に対して、つかみどころ無い微笑みと、あたりさわりの無い応答で、決して自己主張をしない。お金はパチンコで稼ぐ。知らない会社の宴会にもぐりこみ、淡々と余興を披露する。
1-2 惹かれた理由 【気持ちのよい肩透かしの故に】
監督・脚本・撮影 浅井慎平さん。
キッドナップというくらいだから、子供の誘拐事件の映画である。(これはネタバレにはならない)
しかし、映画の、誘拐事件の起承転結に対する眼差しは、淡白だ。事件の発覚、指名手配、目撃、通報、逮捕。次第に追い詰められるというサスペンス色は、タモリが、自分の逮捕についてまったく無関心であるがゆえに、映画においても、ほとんど関心がはらわれない。つまり、この映画のあらすじは、まったく映画とは無関係なのだ。
逮捕の表現も、まったく人を食ったような一撃で決める。
この映画に惹かれた最大の理由は、この気持ちのよい肩透かしだ。
2 芥川龍之介との結節点
2-1 キッドナップ・ブルースを展開する
私は、「物語と小説」という区分を信奉する。『キッドナップ・ブルース』は誘拐犯人の逮捕までの物語だが、出来上がった映画は、違うものを表現している。
この映画で描かれているのは、放浪するタモリさんが、さまざまな人と出会い、もっぱらその人々から一方的に話を聞かされるさまである。
放浪の動機は、少女の漠然とした好奇心だ。少女の存在意義はそこにのみあり、そのために、使われたのが「誘拐」という物語なのである。
タモリさんと、通り過ぎる人々との間には、会話すら成り立たない。長い時間を共にすごす少女との間にも、会話は成り立たない。(唯一、タモリさんと言葉を交わさない所ジョージさんは、少女との交流をいとも簡単に成立させる。タモリさんは遠くからそれを眺めるだけだ)
こうした非ー交流の断片が延々と繰り返されるのが、この映画だ。
で、おもしろいのか? 私にはとてつもなくおもしろかった。
2-2 結論 【映画と小説論との合致】
「小説における筋の貢献度」に関して、芥川龍之介さんと、谷崎潤一郎さんとの論争があったという。芥川さんは、「小説」のおもしろさの上で、「筋」はさほど重要ではない。との立場だと。「筋の無い小説論」と私は記銘し、ことあるごとに持ち出してくる。つまり、私はこの考え方を教条としている。
物語にはもう飽きた。物語を食い破り、バラバラにしてしまうような細部こそがおもしろいんだと、感じている。だが、物語の強度は並大抵ではない。それを食い破ることができる細部に出会えたときの喜びは、大きい。
ここに、この映画の感想と、芥川さんの主張とが合致した。
「誘拐」という筋立てを粉飾するための細部などいらない。せっかく個性満点な人材が大挙出演しているというのに、彼らをサスペンスに殉じさせるなんてもったいない。「誘拐」という物語が発散してしまうような細部の集積として、活躍してもらいたい。彼らにはその強度があった。そこにこそ、映画=小説の面白みがあるのだと思った。
因みに、映画には、「編集」という作業が介在する。これこそが物語を分解する作業だ。因果と時空とを組み替える作業。だから、映画も小説も、どこから始めてもよくどこで終わってもいいのだ。(『闘争のエチカ』柄谷行人+蓮實重彦 にかいてあった)
3 発展 【そして、『落丁の多い本』へ】
芥川さんの慧眼 『人生は落丁の多い本に似ている―』を、ついでに思い出した。そして、これは人生の小説性を言い当てている、と考えた。
日々の生活を、時系列で細かく思い出してみると、そこに何の脈絡があるだろう。それぞれいくつかの物語を平行して進行させているという自負がある。思いがけない展開もまた、思い出の中である一括りのタイトルがつけられる。
だが、本当は、事後に断片をより集めて、それらしい物語を再構築しているだけなのだ。なぜなら、人間は「自我」という最強の硬度をもつ物語を手放せないから。
これは「実に、もったいない」と思った。
小説は、物語を批評できる唯一の立場に違いない。なら、手垢のついた物語なんて退屈なものに収束させる努力なんてやめて、落丁をそのままに、どんどん発散させてしまえばいい。
編集を、物語の道具にするのは間違いだ。物語を壊すための編集こそが、おもしろい。だから、そういう映画や小説や、人生は、きっと面白いと感じられるものだと、私は考えている。(了)