[WhatとHow]と[Why]との隔絶
書いたのは長沼毅准教授
長沼先生は「いいとも」のコーナーレギュラーを務めていたいたことがある。「越境する教授」という印象だ。だが今回の書籍では、真面目すぎたようだ。
生命とは散逸構造体である
目次でこの項目があるのを見て、購入にむけて心が動いた。この論点でのまとまった記述があるとありがたいと思ったからだ。
このあり方は、仏教的にたいへんに同意しやすい。(唐突だが私は「仏教」が好きだ)
進化には目的も、方向性もない
これも大賛成。異種間共生や擬態など、うまくハマりすぎな事実もあるが、闇雲な試行の結果、残ったものが残ったのであるという認識は絶対に必要だ。でなければ、「創造神」を認めるしかなくなる。
利己的な遺伝子は利己的ではない
リチャード・ドーキンス氏の呪縛(これは誤解だということが明らかにされる)から逃れることができたのはありがたい。そもそも、遺伝子は意思を持たないだろう。人間を乗り物としたのではない。人間というデザインが生き残ったというだけのことなのだから。
博物学と形而上学
生物学は、未だ「博物学」の網羅主義が不完全だという認識に同感。博物学とは分類学であり、分類は常に流動的でなければならない。熊楠は粘菌に越境する生命の可能性を見た。極限環境における新発見は、それら可能性の宝庫のはずだ。現在ある分類など、どんどん改定して、生命の新たな可能性を模索すべきである。
「何をどのように」にもどってしまった
とても残念だ。メタ生物学。
命とは何か、とは何か。
この部分に惹かれて私はめったに買わない書籍、を久しぶりに買った。だが、最終的に、生命とは何か、という問を、生命が発生した原因についての考察にすり替えて、終始した観がある。
無論、「生命」とは何か。「なぜ生命があるのか」という問に答えるのは難しい。生物学だけでは不可能だろう。
「生命」という現象
生命とはエネルギーの出入りであり、その出入りが細胞の寿命により行われなくなると生命は生命でなくなる。それが、回答であり、事実だ。
生命というものは、人間という集合体としてではなく、個々の細胞レベルにおいて考えられなければならないのだろう。
「なぜ生き続けたい?」
私が不思議なのは、「存続するということを是とする働き」はどこからくるのか、ということだ。「そういう方向性をもつものが進化の結果生き残ったから」ということなのだろうが、なぜ、「存続」が求められるのだ。
生命の問題とは、そこに尽きる。「なぜ、生き続けたいのか」
仏教にはその答えがあると思う。
最後に
ところどころ、「現在」を目的地として、「過去」を「整理」してしまう視点が紛れ込む。特に進化について記述する場合に顕著にみられる。それについて本人は自覚的ではあるが、わかりやすい説明を、と気を使うところに、出てきてしまう。難しいところだろう。
以上