望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

俳句

寺山修司さんの短歌と俳句

はじめに 俳句に関しては俳論的なものを読んだり考えたりしているが、短歌についてはあまり深くは考えず「文」の延長で書いている。五・七・五・七・七 の三十一文字は、心情を吐露し、物語を作るのに適した形式だと思われる。 これは私が好きな短歌作家が、…

私の「松尾芭蕉」 ――『芭蕉全句集』拾遺

はじめに 「平和俳句」提唱者の私ですが、つまりは「写生俳句」ということです。 俳句の抜書きをしてきた結果、作るほうはさっぱりですが、「好み」は固まってきたと思うので、ここいらでずっと避けていた松尾芭蕉さんを読んでみようかと思いました。 芭蕉全…

芸術性の有無を判断する基準 ―静謐な詩情が掠める何か

はじめに 基準はもっていていいと思う。たとえその基準が人それぞれであり互いの基準を互いに受け入れることができず、己の基準を押し付けあうという不毛ないざこざが起ころうとも、「表現に芸術性を見出す基準」は、それぞれが持っていてしかるべきである。…

平和(ピンフ)俳句を考える 

はじめに 角川書店の『増補 現代俳句体系 全15巻」を通読して、ふと思いついたのは「平和俳句」です。「へいわ」ではなく「ピンフ」です。さまざまな要素が組み合わさっていながら結果的に「0(=1)」であるような俳句です。 私は写生至上主義ですが、子規さ…

Back skippers から A slanting slider へ ――『日本文学の大地』考

はじめに 『日本文学の大地』という中沢新一さんの文庫本を読んでいて不思議だったのは、「なぜ、今日本古典文学を読むのか?」でした。しかし、この本はまさに「今、私が読むべき本だった」と気づいたとき、その疑問は吹き飛んでしまいました。 www.kadokaw…

小説となるべき差異の在り処 ―すべらない話 20190727 大悟(千鳥)さんの島の話

はじめに このブログには、以下の番組についてのネタバレがあります。ご注意ください。 小林メロディーさん。声がよくておもしろかったですね。淡々と話していくスタイルが好きです。 稲田さん。絶対に「顔いじり自虐」なのですが、そのバリエーションの豊富…

ケンカをやめて 俳人蕪村 vs 郷愁の詩人与謝蕪村

はじめに 1927年6月ー7月に伊豆湯ヶ島に逗留していた文士を調べていて、萩原朔太郎さんのことが気にかかり、『ちくま日本文学全集 萩原朔太郎 1886-1942 筑摩書房(1991年10月20日 第一刷)』を読んでいたら『郷愁の詩人与謝蕪村』(以下『郷愁の』)…

虚子の狭量さと綴り方 ―杉田久女さんとのことから

はじめに 角川書店の『現代俳句大系 全15巻』の15巻からさかのぼって俳句を拾っていて、その第9巻に『杉田久女句集』がありました。俳句を拾うのに、作者に関する知識は不要という主義の私は、前書きは勿論、作者年譜、句集の序や跋は流し読む程度なの…

俳句と動詞 ―子規句集にみる無動詞俳句

はじめに 俳句は写生。それが俳句をつまらなくした、イコール、正岡子規さんが俳句をつまらなくした、という風潮があると読みましたが、それは別にどうでもよくて… 俳句は写生。理想としては眼前の「モノ」を示すだけで、成立させたいという思いがあり。 と…

言語にとって抽象とは何か

はじめに 『増補現代俳句大系』 角川書店 の15巻から遡って俳句を拾い始めた。拾う基準は1.「我」という言葉がないこと 2.感情を表す言葉がないこと 3.「俳句のためにしたこと」を詠んでいないこと 4.なるべく平易な言葉で書かれていること であり…

異邦人から俳人へ カミュ『異邦人』を読んで 

はじめに 新潮文庫の『異邦人』を読み返した。乾いた文を読みたかった。村上龍は生々しすぎる部分があるし、村上春樹は全般的に他人事すぎる。だから、異邦人。 だが、それは第一部の記憶だった。裁判と収監の第二部に至って、文体は、私の求めるそれとはか…

只事ではないタダゴト ―正岡子規さんの俳句

はじめに 何のために、何の意味で、あんな無味平淡なタダゴトの詩を作るのか。作者にとって、それが何の詩情に価するかといふことが、いくら考えても疑問であった。所がこの病気の間、初めて漸くそれが解った。(中略)退屈もそれの境地に安住すれば快楽であ…

私説 夢と公案 -石原八束さんの(反)写生

はじめに 「私説 現代俳人像 上 倉橋羊村 東京四季出版 平成十年一月一日」を読んでいて、石原八束さんの「反写生の姿勢」について考えた。 慙愧の念 今回のブログでは、この「反写生論」への反駁を試み、「心の内」などという近代的自我を盲目的に信奉する…

視線往還 ―物への漸近

はじめに 「写生」により「物(存在)」の本質へ近づくための忘備録 年譜 日本「写生文」 1887年 言文一致 二葉亭四迷『浮雲』 1894年 写生(俳句)正岡子規(画家 中村不折より) 1898年 ホトトギス 虚子『浅草の草々』子規『小園の記』 1900年 「日本」誌 …

虚子のメハニカ ―写生・存門・挨拶

はじめに 正岡子規さんから高浜虚子さんという大道。写生という原理主義から、より過激な花鳥諷詠という保守革新(ここには「美学」の問題がありますが、今回、美学については保留いたしました)。いずれも、主観から客観へ至るメソッドであった。 ここでの…

アナーキズムなんていらない

はじめに 9月の中ごろに書き始め、下書きに放り込んであったブログがある。 『負債論』を読み終え、作者と訳者の著作に興味をおぼえ一通り読んでみようかと思っていた頃だ。 『負債論』についての最初のブログ mochizuki.hatenablog.jp 上記ブログの最後には…

動態学 ―存在はとめどなく、とどめない

動態学とは 始めにこの言葉をみつけたのは以下の雑誌 『リブラリア vol.0(1988年11月10日)』142p 【動態学】変化を動きのままにとらえる発想法 田中優子 一、社会や人類や文化や人間の動き(ダイナミズム)そのものの法則性を対象とする 一、…

私詩論01 強制写生装置としての季語 ―俳句のこと

はじめに 私と俳句 年寄が、仁丹とともに懐中におさめ、盆栽のようにいじくりまわすつまらないモノだと考えていたこともある。芭蕉さんとか一茶さんとか読んでも、のほほんとした明るい農村のような、NHKで取り上げられる、最大公約数のような視聴者投稿…