望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

仏教

大同小異の世界モデル

はじめに 好きな物を書き写す、描き写す。これは幼稚園の頃からの習いだった。ヒーローも、キャラクターグッズも、かわいい子も、その裸足のサンダルも、夕焼けも、ケーキも。 チラシの裏に書き殴ったつたないお絵描きの域を出ないものだったが、わたしは、…

観念論的唯物論 ―イデアと名前

はじめに 理解とは現象を名づけること、ということになっている。 「あの空の七色のアーチは何かしら」「あれは虹さ」ここで、「虹」という名を知ったことで、それまでその名前を知らなかった人の知見の変化量は「虹」という名前が増えただけのことだ。 だが…

響き合う引力 ――写真俳句と未整理のロードマップ

はじめに 先だってのプレバト(2023年1月26日放送分)の俳句で夏井先生が「写真俳句の評価基準」をおっしゃっていて、ひじょうに納得がいった。夏井先生の評価基準はブレが少なく、ひじょうに理論的で、的確な添削と相まってひじょうに説得力がある。…

知恵と慈悲〈ブッダ〉 再読中

はじめに 「無我」とは全てが「無常」であるとの認識により導き出される姿勢であり、「無常」とは「縁起」という存在論が示す解答である。 宗教とセミナー(余談) わたしは存在論として仏教の法のラインに立つ者であることを自覚している。つまり、仏教を直…

依他起性 ―フンボルト(という博物学者という点P)の冒険

はじめに 『フンボルトの冒険 自然という〈生命の網〉の発明』アンドレア・ウルフ著 鍛腹多惠子訳 NHK出版 www.nhk-book.co.jp 古来より、博物学者は蒐集する。整理・分類の情熱は、分けへだてるためではなく、共通点を見出すためである。なぜならば、この蒐…

波頭の橋頭保としての『認知症世界の歩き方』

これは座右に置くべき、こわい本だ。 wrl.co.jp 唯脳論だとか、唯心論だとか、VRだとか、すべてこの世は虚構だとか、そういう言説は理解できるところもあって、結局は「脳」だよ。という感覚は理解できていたつもりだったのだが、それが現実の、ひじょうに身…

詩は俳句の(人の)形に写り込む―『素十全句集 秋』より「月」の俳句より

はじめに 英国式庭園殺人事件(グリーナウェイ監督)では、庭園を写生する絵師が写生機械と化して写生に没頭するあまり、自らが殺人事件の目撃者となっていることにその時は気付かぬまま、その克明な記録を残していたという、重要な要素があったと記憶してい…

読みながら書くブログ 『俳句入門三十三講』飯田龍太 その3 22~ 33

さらに圧縮して記す 22 前衛と伝統 キリスト教は人間の生きざまを非常にこまやかに、ないしは微妙に、一貫して教えておるように思う。ところが、仏教のほうはというと、生きざまというより死にざまにほうにとりわけ重点を置いておる。 指先の草の匂ひが取…

ざっくりさん購読11「ミリンダ王の問い」11.第二編第三章の第三

第三 デーヴァダッタは何故に出家を許されたか? ミリンダ王(以下ミ):デーヴァダッタ(以下デーヴ)は誰に影響されて出家したんだっけ?ナーガセーナ(以下ナ):バッディヤ、アヌルッダ、アーナンダ、バグ、キンピラ、デーヴ、そして七人目に床屋のウパ…

ざっくりさん講読 10 「ミリンダ王の問い」10.第二編第二章

第二 ブッダは全知者である ミリンダ王(以下ミ):ナーちゃん(ナーガセーナ)。ブッダは全知者なの? ナーガセーナ(以下ナ):そう。でも知識として知ってるんじゃないよ。知ろうとしたことをみんな知るんだよ。 ミ:知ろうとして知るのなら、全知者じゃ…

身体を離れないこと ―『舞踏のもう一つの唄』を読みながら

はじめに モーリス・ベジャールさんだ。 www.shinshokan.co.jp 舞踊、武道、音楽、体操(スポーツ)に関する達人の方々の言葉はとても重要だ。なぜならば、そういう方々は身体を熟知しようとする方々だからだ。 私たちは身体として存在している。この存在の…

コトは切断出来ないということ ―阿部完市と熊谷守一と島田修二

はじめに 前回も引いた以下のサイト。 weekly-haiku.blogspot.com ここに、とても興味深い「俳論」が引用されている。今回のブログはこの論について思ったことを記していく。 1.新しい回路基板の実装 俳句を作る、一句を成就するということは、言葉、言語…

『嘔吐』しない佐藤優樹さんに親鸞が召喚されること ―インタビュー『モー娘。楽曲・深読み講座』より

はじめに 今回はこのインタビューを読んで感じたことをまとめるつもりだ。それはつまり、このインタビューをもとに、私が佐藤優樹さんを二次創作する 試みに他ならない。全ての物事は、自らの不透明な体を通してしか、語り得ないからである。 www.fanthology…

定型が環世界であること

定型詩にせっせと励んでいて感じること。 世界を定型に切り取る。 定型に収めるために取捨選択する選択眼。 針の穴から空を見る、その針の穴を駱駝が通り、ひょうたんから駒が出る。 宇宙と一体化する異次元空間としての定型。 と、これは「他者・対象」を「…

即身仏と割腹 ――速度と重力について

はじめに 『身体の宇宙誌』のメモを作っている。以下は再読を始めたばかりのころの感想文。 『永い屁(自作小説)』では、明確に「即身仏」を打ち出すこともなく、したがって「即身仏」の速度、つまりは肉体の速度から逃れるために必要な自由落下に関するこ…

エクリチュール補完計画 ―身体を超えて身体イメージにしがみつく性

はじめに タイトルに深い中身などない。これはイメージだ。 マスクせる顔面を恋愛対象とするとき、互いに感染リスクを負いながらマスクをはずして濃厚接触者たらんとする覚悟をもてるか否かの判断を迫られる時代にシフトした。 無マスクで唾液を撒き散らす行…

ざっくりさん講読9 「ミリンダ王の問い」9.第二編第一章

第一 ブッダに対する供養の効と無効 ミリンダ王(以下ミ)はナーガセーナ(以下ナ)に質問を許されたのでありがたく質問を始めた。 ミ:ブッダが死んでないなら供養する意味なんてないし、死んじゃってるなら供養したって意味なくない? ナ:もともと、ブッ…

実用性とはのりこなす術 ―『磁力と重力の発見3』

はじめに 長いことかかりましたが、読み終えました。『磁力と重力の発見3』 www.msz.co.jp このブログでも、散発的に感想文など書いていました。 mochizuki.hatenablog.jp mochizuki.hatenablog.jp mochizuki.hatenablog.jp 実は、前のほうをほとんど忘れて…

華厳経の「数論」と落語「時そば」という問題提起

はじめに 『現代人の佛教4 華厳経の世界』末綱恕一著 1957.3.15 初版 1976.3.20第五刷 春秋社刊 を読みました。中沢新一さんの『レンマ学』の「華厳経の数論」の項で引かれていたからです。第一篇は華厳経の歴史的背景と、各品のガイドですが、細かなところ…

似てるっ! ――『音楽寅さん』における桑田さんの「似てるっ!」という感嘆詞

はじめに 音楽寅さんという懐かしい番組で、オープニングテーマを作る回を見ていると、桑田さんは、うまくいった! いい! 最高! など肯定的な感極まった時の感嘆詞として「似てるっ!」を用いていた。 これが、「来た」 同様の感嘆詞に「近い!」「来てる…

『レンマ学』から始まるノート 1 ―言語眼鏡による転倒

はじめに 中沢新一さんの『レンマ学』は、とってもお得な一冊だ。なにしろこれは中沢さんの集大成の根本テキストなのだから。 bookclub.kodansha.co.jp その中心には「華厳経」がある。まだぜんぜん途中までしか読んでいないが、私はこんな感想を書いた。 中…

『謎の男トマ(一九四一年初版)』―その眼と身体の夢(死)(に限って記す)

はじめに ある小説を書こうとしていることは、以前述べた。そしてそのために、デリダの『盲者の記憶』から『触覚、』に激突(しかし私に「激突」に足る「重さ、または密度」を保持し得ほどの「渦」が継続していただろうか?)したと思った相手の中の人は、ほ…

キュビズム律俳句とは ―自由律俳句への自由なアプローチと助詞

はじめに 偶然出会った荻原井泉水さん関係のブログの中に、自由律俳句とは、随句とは、短詩とは、という内容がとても明快かつ詳細に書かれていた。 yahantei.blogspot.com の中の、この記事である。とても有難い。今日、これからしっかりと勉強しようと思っ…

私的華厳2 カオス・ノモス コスモス・アンチコスモス カオスモス

なんとなくはじめる 井筒さんの「アンチコスモス」は「コスモス」から捉えた「カオス」の性状を示す。 コスモス→カオス=アンチコスモス 中沢さんの「反コスモス」は「余剰せるコスモス」だが、それは「ノモス(差異の共時的大系)をはみ出したコスモス」で…

井泉水句集(新潮文庫版) 付録 俳話より

はじめに 前回に引き続き「自由律俳句」だ。 私の手元にある荻原井泉水さんの句集は新潮社版の昭和12年1月7日の版で、昭和4年から昭和9年、鎌倉在住の頃の句を集めたものだ。昭和9年に五十歳となった井泉水さん的にも、よいまとまりの期間だったのだ…

自由律俳句の歩き方 ―十重唯識と花鳥諷詠

はじめに 自由律俳句は、作るのに資格がいると思う。 その資格がない人間が作ったものは、単なる短文であり、珍文奇文だ。もちろん、それらの中には、一言ネタとしてはおもしろいものも多いし、「すごい」と思うものも少なくはない。私は、この「すごい」と…

私的華厳 1 物・事・理・法

物・事・理・法 物は時間的で理に依拠して変化する。事は空間的で法に依拠して移動する。 物は事の経時的顕れであり事は物の共時的実相である。 物には境界があり事には流動がある。 理は物によってのみ部分的に顕れ法は事によってのみ部分的に顕れる。 全て…

真如の分節により生じた「エロス」から考える「未来」の在り処 ―輪廻と映画の比喩の問題点

はじめに 仏教では存在をは、 ①「無常」だから「物はない」 ②「縁起」だから「物はない」 と考える。 「無常」とは、「存在する物はそのまま存在し続けることはない」ということを表している。なぜ、そのまま存在し続けることができないのか、といえば物は複…

『光について』ロバート・グロステスト ―コーラとしての〈穹天〉

はじめに 『磁力と重力の発見 1』を読んでいて、タイトルの著作が気にかかった。そこで借りてきた。 キリスト教神秘主義著作集3 サン・ヴィクトル派とその周辺 須藤和夫 他 訳教文館 2001.4.10初版 ここに『光について』『色について』「虹につい…

『磁力と重力の発見1 古代・中世』メモ 霊性・生命・機械→「神」→科学

はじめに なぜ真如は物質(存在)となるのか? を考える上で「光」と「重力」とは一体のものだと思う。そこで、『磁力と重力の発見』全三巻を読むことにした。 山本義隆著 2010.4.30第15刷 みすず書房 今回その第一巻を読み終えたので、印象深い部分をメモし…