望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

リビドーのダイバーシティー

はじめに

この記事は、性的内容を含みます。(扇情的なものではありません)

ある青年の話

先日、こんなことを考えた。

幼児期、歯の生え揃わない口で母の乳首、乳房を含んだ感触が忘れられず、青年期に総入れ歯にして、さまざまなモノを口に含み続けた結果、男性器こそが自分の求める感触を与えてくれることがわかった。彼は毎日、男性を誘うのだがその時必ずこう言い添える。

「恋愛対象は女性だから、勘違いしないでよ」

嗜好物と恋愛対象

 この青年は男性の身体を持ち、男性のメンタリティーを持ち、恋愛対象は異性である。これを現代社会では「正常な男性」としている。
 この青年が尺八で勃起するか否かについては、フロイト的見解からの検討が必要と思われるが、たとえば、蟹好きな女性が蟹にむしゃぶりついている時、愛液を分泌しているかと考えると、そこまでには至らないのではないかとも感ずる。自分があん肝を貪り食っても、カウパー腺液は分泌していないことから、類推すればだ。だが、それも、痛みを弱く刺激したものが痒みだ、という程度の差ではないかと、思っている。

 だから、以前たしか聞いたことがある、真鍋かをりさんの、気に入った釦を縫い付けた布切れ、についても、同様の興奮をもたらしているのであろうと考えられる。確か、テレビで大小さまざまな釦を、ただしっかりと縫い付けただけの、端切れを、指でコリコリしたり、噛んで歯ではじいたり、たぶん舌を這わせたり、吸ったり、していると、時間を忘れると言っていた記憶がある。(記憶違いなら、真鍋さんに謝ります。届け!この謝罪)

代替可能なのか?

 リビドーは、口唇、肛門、性器、異性へと、その関心を移していくことが、現代社会では正常とされている。人間の活動の根本を「リビドー」とし、全ては「エロ」の代替物だという学説には、「女に現を抜かすなら、野球に打ち込め」とか「わぁ~っと叫んで砂浜を走り回って疲れ果ててないと、悶々として眠れない」という60年代的青春ドラマ性を感じつつ、正しいと直感する。だが、なんといっても、異性へむかうリビドーが、麻薬的に最強なのである。(その先のセックスにおける、エクスタシーが脳内麻薬を放出させる、というのとは別に、もう、想像するだけで、夢精するような強烈な性衝動を、他の活動に代替させ、かつ、女性への関心を完全に葬り去ることのないように調整するのは、並大抵ではないのである)

愛執対象

 恋愛とは究極的には「子作り」させるための仕組みだ。恋愛と呼べばなんとなく、聞こえがいいが、それは執着であるということは、仏教はきちんと捕らえている。愛執はもっとも強い「業」である。件の青年は、男性器を口に含んだ感じに愛執し、かをりさんは釦を口に含んだ感じに愛執する。口唇期の呪縛は強い。これが「食」と「性」との近接性を招いている。

 恋愛対象を、愛執対象と言い換えることに、何の躊躇もない。件の青年が、他に得がたい感触を与えてくれる男性器の持ち主に出会ったとしたら、青年は、男性に執着するに違いないし、それは外からみれば恋愛にそっくりに見えるだろう。釦も同じだし、蟹も同じだ。異なるのは、愛執の対象が、極端に部分的か、ぼんやりと全体的かでしかない。

 性的欲望とは愛執する感覚を(繰り返し)味わいたいと願うことであり、その対象を安定的に身近に置きたいと願うことである。軽犯罪法に触れるものも、触れないものも、三面記事で変態番付をにぎわせるものも、それほどでもないものも、刑法に触れ、服役せねばならないものも、恋愛=偏愛=愛執の対象は、ガンジス川の砂粒の数ほどあるだろう。

社会問題としての性

 タモリさんは、自分のメンタリティーは女性であり、その女性のメンタリティーにおいて、女性が好きなのだと、言っていたと記憶している。メンタリティーと肉体との食い違いに悩んでいたとすれば、性同一性障害の診断を受けねばならないと思う。

 また、トランプさんが先ごろ、性を身体の性に限定するとの意見を表明したとか、きいたような気がする。それは、ある意味で正しい。男女別というカテゴライズが存在する以上、見た目で明らかでない部分によって、従来どおりの男女区分を継続することは不可能だ。自己申告で悪さをする輩が必ず現れるからである。

 だ・か・ら、というところから考えるべきなのだと思う。

 温泉施設に限っても、男湯と女湯の区分を保持した上で、外見で男女を区別しないとなると、全てを混浴とするか、男女のいずれも、希望者は水着着用を許可するか、不特定多数での入浴を禁じて内風呂のみとするか、ということになるのではないかと思う。

 また、男性の身体で愛執対象が男性だったり、女性の身体で女性が愛執対象だったりする人を区分することは、現状も、できていないことはいうまでもない。

 見たい者と、見られたくない者とを混在させない方法というのは、とてつもなく難しい。愛執は多様だからだ。たとえば、食事シーン、走るシーン。そういった姿態に興奮する者もいる。いつも、誰かが誰かの心の中で愛執されている。それを禁じることは不可能だ。

 自分の身体とメンタルの性の不一致には、医療的な支援が不可欠だし、戸籍も、きちんと対応すべきだ。
 ところで、ここには「恋愛対象の性別」は含まれない。その点で同性愛差別の問題とは、一線を画すものと思う。これらは、「性」差別としてセットにされがちだが、「自身の性」と「相手の性」という別の問題だ。

同意

「男性の身体で男性を恋愛対象とする」「女性の身体で女性を恋愛対象とする」ことの自由も、保障されなければならない。そして、恋愛は、互いの同意によらねばならないことは、いわゆる「正常」と現代社会でされている者たちの恋愛と同様でなければならない。
 幼児に愛執する者は、この「同意」の有効性において、罪に問われる。幼児だから×、とするのは、リビドーのダイバーシティーの拡大運動を縮小化してしまう。同様に、獣姦も×だし、相手の自由を奪って犯すことに愛執するのも×ということになる。政略結婚も、借金のカタも、カリオストロ伯爵も×。

 だが、互いに成人し、同意しているのであれば、いわゆる正常な恋愛だ。それを、国が渋る理由とは?

家族国家

 同性愛を禁じる宗教は多いのではないかと思うが、そういう神はたいてい一神教で、異性間の場合だって、セックスは子作りに限定したりして、性に不寛容だ。それは、自分への関心が薄れるのが許せないからだ。
 そうやって「恋愛」を軽んずるから、逆に「神の思し召し」でお前とお前夫婦。とかくっつけて子作りさせることもできるわけだし、信心深い夫婦であれば、子作り以外でセックスしなくてもいいから、嫌悪感も軽減される。そして、長く一緒にいれば情もうつる。幸せって何? っていうのはまた別のお話で。

 国が家族を支援するのは、徴税と治安のためだ。とくに、子供を作らせるために、国はさまざまな支援政策を用意しているので、子供を作れない同姓婚に、そのスキームを使われるのは、おもしろくないのではないかと勘ぐってしまう。でも、その政策も最近ではすっかり空砲ばかり。そんな状態で「同性婚を駄目だ」というのだから、議論以前の問題だ。

 そして、治安的には、一夫一婦制を強いることで、無用な刃傷沙汰を起こさせないという抑止力と、さまざまな制度的不備を、家庭の問題、として表沙汰にさせないという効果もあるのだろう。

国民番号

 日本の戸籍制度は、大いに役立っている。せっかくみんなが国民番号をふられたのだから、それをどんどん活用して、婚姻届だろうが、就職離職だろうが、養子縁組だろうが、バンバン簡略化させればいいと思うのだが。

 こういうものは、一元化しなければ、意味がない。番号の紐付けだけで、家族だろうが、仕事だろうが一目瞭然にできる。

 そしてこうした簡略な制度は、リビドーのダイバーシティーにも貢献しうるのだと思う。つまり、番号があれば、性別など不問にすればいいのだから。プライバシー? そう。その配慮は大事です。

おわりに

 今回は、男装、女装などに現れる「服飾等倒錯の性」については取り上げていない。これらもまた、考えねばならない。