望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

最高最高 ―滝沢カレンさんと黒柳徹子さん

まずは、お知らせ

 MORNING MUSUME。 '18 DVD MAGZINE Vol.108を見ていたのですが、MCの「チーズくっせっ! orz」の話をしている、27分29秒あたりに、「こんにちわ」という声が入っています。わりと大きなレベルです。その後にもなにかごにょごにょという声が入っているように聴こえます。このDVDをお持ちのかた、確認してみてください。

www.youtube.com

はじめに

 5月3日(木)放送の、「徹子の部屋」に、滝沢カレンさんがご出演なさいました。

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 この放送は、反響をよび様々なところで紹介されていますし、滝沢さんの言葉の書き起こしなどもあります。ほとんどが、「名言」「神回」「素晴らしい」と好評です。滝沢さんも、とても幸せな時を過ごせたとのこと、何よりでした。

takizawakarenofficialみなさん、こんばんは💕

ついに時が来た日が来たのでご紹介します👍🏻😉🌈
皆様の耳に頭に残らせたくてずっと待ってました😆👍🏻💕✨✨ 明日テレビ朝日さんにてお昼12:00〜「徹子の部屋」になんと、私が出場します❣️😆😘🍎 決まったときから衣装選びに励み、運動会の前日のようにワクワクする気持ちを一カ月にわたりぶら下げていました🤗😂💗‼️💪🏻💪🏻💪🏻 なぜなら、

私の祖母ことおばあちゃんと小さい頃からずっと一緒に居間で観ていた憧れだからですよ✨🌈 おばあちゃんは黒柳徹子さんが大好きでしたので、おばあちゃんが生きてる間に見せてあげたかったのですが、、、自然の力に歯向かうことは出来ませんので...きっと近くで一緒に見てくれてることでしょう😉💕🧓🏻💗 おばあちゃんの話をたくさん出来ましたので、遅くなってはしまったがおばあちゃんへのプレゼントになってるといいです😆❣️✨ そして、大好きな徹子さんはやっぱりそうで、あの部屋に招かれたことは地球がひっくり返っても、私の一生受け継がれる内容です😋👑 2人で話したお時間はあっという間に終わり、徹子さんのお部屋を退出するときはどこか寂しくなりなんからここに住みたいくらいの暖かさを一気に伝わりました🤗🏝 そんな私の流れ星が詰まったかのような、徹子の部屋を是非、皆さんにも見ていただきたいです👍🏻🎉🎉😆💕😆 自分が出たというのに、私も楽しみすぎて今から震える手を抑えて寝るところです😌🌙 幸せに今夜も土下座ですね🍃☘️💕 明日12:00〜「徹子の部屋」何がなんでも見てください💪🏻 #なぜか感じる温もりは
#おばあちゃんも興奮して近くにいてくれたのだろうか
#遅かった時間は戻せないが
#その代わり夢はしっかり叶ってくれた
#充分すぎるほどの幸せを噛み締めて
#帰った家路は忘れない
#家族にも喜んでもらえて
#自分もものすごく嬉しい時間
#素直に幸せな時間だったと
#胸を張って言い伝えたい

滝沢カレンさんのInstagramより

黒柳徹子さんのテレビ

 黒柳徹子さんの態度について、今回は深入りすることはできません。なぜなら、私は「徹子の部屋」の熱心な視聴者ではないからです。

 今回の、滝沢カレンさんを招いた限りでの黒柳徹子さんについての印象として、「質問に答えを求めない方」だと思いました。黒柳さんは、滝沢さんの生い立ちや、家族の話を質問します。また、滝沢さんについての印象を投げかけたりします。

 滝沢さんは、もちろん、その問いに答えますが、滝沢さんの語法による答えなので、時折意味が通らなかったり、主客が転倒していたり、言葉を取り違えていたりすることが多々あります。

 そんな滝沢さんの言葉を、黒柳さんはすべてスルーします。(受入れる、理解しているとは、私には思えませんでした)おそらく、自らの発した質問にもさほど執着していないのです。言葉は「部屋」の中に投げ出されたままになっているのです。

 だから黒柳さんは、自らの予測が外れても動じません。それは予測ではなく、単にフリだからです。当たっていようが、外れていようが、そこからまた話が引き出されればいいのです。

 滝沢カレンさんが詠んだ俳句が、俳句としての態を為していなくても、ゲストが「俳句」と思って表した言葉であれば、それこそが「部屋」に必要なものなのであり、真偽や正誤を問う必然はありません。まして「理解」を共通目的とする場でもないのです。

吉田(前略)それでべつに正解を出したいわけじゃないですからね。(中略)それにインタビューで「あなた嘘ついてますね?」という詰め方はまったくしないし、なんの興味もない。「この人がこう言っている」という事実が重要なんですよ。(STDIO VOICE March 2018 No.412 「インタビュー」をめぐるインタビュー「しがらみから遠く離れて」尹雄大吉田豪 より)

 黒柳徹子さんはテレビの黎明期からテレビに出ている方です。きっとテレビが大好きなのだと思います。ずっと、テレビに出る側でいる黒柳さんが「部屋」では「ゲストというテレビ」を見ることが出来るのです。徹子さんの「問いかけ」とは、おもしろそうなチャンネルを選択する行為に似ているように感じました。

面倒くさいこと 

 「60歳も差がある人と話すのは面倒くさいでしょう」

と、黒柳さんは言いました。滝沢さんはイエイエと、恐縮した表情で首を振っていたと記憶しています。

 黒柳さんは本当は(共感をこめて)こう言っていたのかもしれません。

「他人に説明するのは面倒くさいでしょ?」

 それは、滝沢カレンさんが、その「面倒くささ」を絶えず生きている人だということを、黒柳さんは理解できるだろうからです。(cf.『窓際のトットチャン』)

もちろん

 「自明なことなどない」

 滝沢さんの語法には、この認識が色濃く反映しています。他人との会話において前提できる共通認識はない。滝沢さんは常に一から「説明」を構成しなければなりません。

 滝沢さんが、共通認識の存在を推定する場合には「もちろん」という言葉を用いるようです。ただ「もちろん」がもちろんでない場合もあるため、滝沢さんにとっては、諸刃の剣となるのですが。

異邦人

 説明するためには、あまり独りよがりな言い方をしては駄目だと、滝沢さんは承知しています。

 今回も、例えば、写真に映っている人物を紹介するばあい、彼女はどちらが祖父か、どちらが母か、など、一目瞭然と思われることでも、「下を向いている人が~」とか「左側が~」など、逐一説明します。

 見た目で分かる、という思い込みを、滝沢さんは信じていないのです。逆をいえば、滝沢さんは、そういう「自明さ」が通用しない他者が住んでいる世界に生きていると、認識しているのです。

 また、自己再帰的な言い回しを多用するという特徴もみられます。

「私は○○でやってきた人間なんで~」「おじいさんは○○な男ですから~」「おばあちゃんは○○してきた女なので~」 

 こういう「関係代名詞的」用法は、文法としては「彼」や「彼女」、「私」という人称代名詞を用いますが、こういった「事前了解を必要とする言葉」よりは「男」「女」「人間」という、よりフラットな名詞を用いるべきだと考えているのでしょう。

 この結果、肉親や目上の相手などと、自分との関係性が、文章の中でねじれるのです。

 有名な「棒状の棒」という語法も、この範疇に入ると思います。まず「棒」という一般的なものを指示し、その指示した「棒」がどのような形状なのかを説明しなければ伝わらないと考えるのです。その「棒」は「棒状」だったのです。棒=棒状 という認識を彼女はもちません。棒状ではない棒だって存在するわけだし、棒ではない棒状のものだってあるわけですから。

 こういう滝沢さんの姿勢を、「対象を徹底的に相対化している」と考えることもできます。対人関係を(自らも含めて)強度に相対化することで、あらゆるものの関係性をフラットに還元してしまうため、滝沢さんは、「関係性」をとらえることを、いやそれを説明することを、非常に困難にしているのだと考えました。

 自分自身をも言葉の上で常に相対化してしまうため、リアルな関係性をそのまま言葉に置き換えることができなくなり、必ず、関係性を捕捉しなければならなくなるのです。また、そのように説明することによって、自らの位置が確認できるのです。

現在完了形の今

 滝沢さんは、小学生の頃からアイデンティティーの揺らぎに悩んでいたと感じました。父の不在、ハーフであること、身長、髪色、そしておそらくは言葉遣いなどを、揶揄されたり、もしかしたらイジメられたりしていたのかもしれません。 

 自分が日本人であることを誇ると、滝沢さんは言っていました。

 前述した特長を個性として生きてきて、おばあちゃんが大好きだった「徹子の部屋」に出演する今に繋がっているのだという、悦びが感じられたのですが、その「全てが今に繋がっている」という主張が「過度」だとも感じたのです。

 滝沢カレンさんは「部屋」で、「未来」を口にしませんでした。(将来についてのフリもなかったのですが)

 彼女は「現在完了形」に生きている。

「我学ぶゆえに我あり」

 滝沢カレンさんの身体は、滝沢さんのアイデンティティーよりも少しだけ前に飛び出しています。

 彼女自身とは、触覚なのです。

 得体の知れない空間を手探りで探査する、カタツムリの触覚。ただ、実際のカタツムリのように、ビクビクしてすぐに引っ込んでしまうような弱腰のものではなく、むしろ積極的に、周囲の環境を調査研究し、周囲を学ぼうとする強い触角です。つまり、滝沢カレンさんは、この「学ぼうとする姿勢」においてのみ、存在するのです。

歓喜と感謝の涙

 そうして得られた知見のみを、滝沢さんは手繰り寄せているのだと思います。そしてこのことは、自分が自分である証明をできるのは、自分だけだという覚悟を生きるということだと思います。

 おばあちゃんの指輪を黒柳さんが嵌めてくれた「今」。ここに流れた涙は、滝沢カレンさんが、今ここにいることが、完全に正しかったということを、完璧に証明してくれたのだという歓喜と感謝の涙だったのではないでしょうか。

言葉以前の世界

 ところで、滝沢カレンさんを見ていると、「言葉になる前の感情」や「言葉以前のカオス」といったものを如実に感じ、言葉による分節によって世界を認識する。などという理屈は、吹き飛んでしまいます。言葉などなくても世界は在り、世界の中で自我は、どうしようもなく疎外されているのだと、感じます。

 言葉とは、言葉そのものとその言葉が示すものとが一対となって意味を成します。滝沢さんの苦悩は、この一致を前提にできない点にありました。

 滝沢さんが、感じたことを日本語で説明する作業は、「翻訳作業」に似ています。

 私たちにとっての日本語とは、ホームズにとって、観察と推理とが習慣となって知覚の一つのようになっているのと同じように、習慣化されています。母国語というのは、そのように「内面化(していると錯覚)」できるものです。

 そうなると、言葉以前の感情そのものに向き合うことは、ひじょうに限られた状況下の場合のみとなるでしょう。

 ですが、滝沢さんは、常にそのような状況下にあるのかもしれません。翻訳以前の原語が不明確なのだとすれば、そもそも翻訳は難しいのかもしれません。

 指示する対象が曖昧な場合「比喩」という方法が有効かもしれません。

比喩の正誤

 比喩とは感じたことを、それに似た別の物事で表すことです。そのように言うことで、言外のニュアンスを含ませることも可能となり、その概念の触感のようなものを相手に想像させることすらできるでしょう。

 さらに重要なことは、比喩には誤りは無いということです。

 上手い、下手はあります。伝わりやすい、伝わらない、の区別もあります。しかし、自分の感覚を言い表すのに用いる比喩は、誤りということは、絶対にありません。

 ちょっと違うかな? と思いつつ「伝わってくれ」とばかりに発する比喩もあるでしょうが、比喩に関しては、評価はありこそすれ、正誤はありえません。

比喩と翻訳

 何らかの理由で、母国語を内面化(していると錯覚)できないでいる滝沢カレンさんにとって、日本語で説明することは、比喩に近いのではないでしょうか。

 自分が伝えたいことと自分が発した日本語とがうまくあっているかどうか。彼女はいつも不安でしょう。

 ましてや、黒柳徹子さんという、自分のルーツともいうべき人と、ようやく遭えたという興奮は、滝沢さんをいつも以上に慎重にしていたことでしょう。

クロバット

 薄明かりの中空に張りめぐらされた関係性の網目を、触覚を精一杯のばして探りながら進む滝沢カレンさんの姿を、私は、大地を踏みしめて、下方から見上げているような気がします。ハラハラしながら、手をさしのべて。おそらく、世界の実相は、滝沢さんに近いところにあるのだと思いながら。
 もしも滝沢さんが足を踏み外すようなことがあれば、私は受けとめることができるでしょうか? いや、多分、滝沢さんは落ちてこないのです。その時、崩れるのは私の足元の方だからです。日本語に魂をひかれた者の足どりの確かさとは、ある種の重さにほかならないのですから。

 「説明」という枷を離れて、母語を駆使して自在に跳ね回る滝沢さんのインスタグラムを読みつつ、がんばってください。どうかがんばってください。と祈っています。