望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

透明な猫などいない ―綴方と写生文

はじめに

『感覚の近代』坪井秀人 2006.2.28初版第一刷 名古屋大学出版会 を読んだ。

 そこで初めて「赤い鳥」誌上におきた豊田正子さんの「うさぎモデル」事件を知った。私にとって、この事件は「表現者の主体」について大いに考えさせられるものであった。

うさぎモデル事件

 193×年 豊田正子さん(執筆当時小学校4年生)の綴方を、大木顕一郎さん(教師?)が雑誌「赤い鳥」に投稿。鈴木三重吉さん(大木さんの指導者であり「赤い鳥」編集者(?))が入選として掲載した。
 この作品が学校の教室で紹介されたとき、モデルにされた梅本家がこれを問題視したことで、豊田家の生計にも関わる大きな事件へと発展し、豊田さん自身、一時的に綴方への情熱を失ってしまった。という事件である。(p.366 要約)

近所のおばさんから豊田の家が兎を貰う。その時におばさんが豊田の母に漏らした言葉を豊田は綴方の中に正確に書きとめる。

 でね、こゝだけの話なんですけれど、梅本さんのうちへもやらうと思つたんですが、あのうちは、大じんでも、けちくさいから、やらなかつたんですよ。あの家へやつても、おからもけちをして少ししか食べさせないでさ、草もろくに食べさせないと、いくらうさぎでもかはいさうだからね。「うさぎ」(pp.366-367)

綴方

 一九ニ〇年代にはなやかに繰り広げられた〈歌う少女〉〈踊る少女〉たちのパフォーマンスに、三〇年代後半は〈書く少女〉の自己表現(傍点作者)を新たに付け加えたということになる。(p365)

 

(前略)『赤い鳥』の都市型・西欧志向型の(ポスト鹿鳴館的な)高級文化に対してのアンチテーゼが突きつけられたのであり、この動きは綴方というジャンルの内部において最も顕著に展開されたと考えることが出来る。(同頁)

 

(前略)紙と鉛筆さえあれば成り立つ綴方という教育ジャンルが子どもへの経済負担が少なく、結果的に貧しい階層の子供たちが対象化され、《マイナス要因であるはずの「貧困」が積極的に価値付けられていく》(p.366)

 

「見たまま、聞いたまま」に感受された対象を作為を加えぬままに透明に再現することを徹底させた。(p.367)

 問題点

 私が最も引っかかったのは、この部分であった。

(前略)豊田が写真機や録音機さながら彼ら(鈴木ー大木を筆頭とするメディア ※引用者註)の透明な媒体(メディア)となって対象化されてしまっていることが問題になるのだ。

 このような豊田の表現を〈自己表現〉などと呼ぶことはもはや出来ない。いや、あまりに純粋化(著者傍点)された自己の表現であるゆえに、その自己自体が透明な表象として機能してしまっているのである。それは純粋であると同時に空虚であり、透明な対象の再現の向うには掴み所のない真空がぽっかりと広がっていた。豊田を激賞した川端康成は一方でこのことに勘づいていて、嘘を書くことを知らない彼女の文章の読後感が《奇怪なばかり「空白」》であり、《この空白について考へていいると、私は何か恐怖を覚えて来る》と告白している。

 続いて、川端康成の「告白」の引用が続く。

 例へば器楽や舞踏ならば、それを演じる子供の姿を、私達は見ているにかかはらず、却つてその子供を離れて、音楽や舞踏らしいものを感じる。子供の無心な動きが、音楽や舞踏らしいものになつているのだけれども、「綴方教室」の場合では、作者の姿を私達は見ていないにかかはらず、読み終わった時は、書かれたものの感じは残らずに、豊田正子なる少女の感じがなんとなく残る。この「豊田正子なる少女の感じ」が、空白なのである。

川端康成という男

 私は彼の「掌の小説」を手本とするものである。一方、川端康成さんの女性への対し方を嫌悪するものでもある。彼は女性に自由意志も知性も認めていない。彼にとって女性は全て「眠れる美女」なのである。だから、1930年代後半に川端康成さんが(少年)少女の綴方に非常な関心を抱き、それを情熱的に支援した(p.365)ことには、アムロ・レイを恐れたシャア・アズナブルというより、「童心」に対する「尊大な大人のいやらしさ」のみを感じる。

 その川端康成さんが豊田正子さんの綴方を恐れた。

 彼は懸命に踊ったり歌ったりする子供たちを見ず、その「愛らしさ」に抽象化された音楽や舞踏を感じることを自慢する男である。
 だが、綴方の指導に従い「透明に。ありのままに」を徹底した豊田正子さんの作品に、彼は「豊田正子さんの主体」を見てしまいそうになる。
 女性に主体を認めることができない川端康成さんが、それを「空白」と表現できただけでも、上出来であった。

 だが、ここで問題とするのは、川端康成の男尊女卑ではない。「透明な主体」と「主体の透明性」にについてである。

写生文

 綴方と写生文の比較論を、紐解いてみる必要があるが、このとてもよく似た両者の最も異なるのは「主観」のとらえ方だ。

 つまり感情を生まのままに現さないで事件を透かして現すということになると思うのであります。だから写生文というものは事件を仮そめに取扱わない、忠実に大事に取扱う、その点に技巧を煉る、その事件の描写によって作者の感情を読者に運ぶという文章だと考えるのであります。写生の忠実にしてない文章は写生文でないと思います。忠実というのは唯精しく写すというのではなくて、その感情を運ぶのに必要なものを写す、省略をうまくする、即ち洗練された技巧が欠くべからざるものであると考えるのであります。(昭和十四年三月)『俳談』高浜虚子 ※昭和14年=1939年(※赤字化引用者)

 写生文と綴方とは非常に似ている。だが、綴方においては、この虚子さんの後段(赤字の部分)の論点が抜け落ちているらしい。だからこそ、坪井さんは作者を「透明な媒体メディア」と呼び、「嘘を書くことを知らない」と断言しえたのだと思う。

『綴方教室』(大木顕一郎・清水幸治編)、『綴方読本』(鈴木三重吉)『模範綴方全集』全六巻 全て中央公論社 を読んでいないので、実際に綴方がどのようなものであったかについては未見であることを、ここに明記しておく。間違いがあればご指摘いただきたい)

 だが「目の前のことを」「ありのままに」「表す」という姿勢を徹底すれば「主体」は「透明」になりうるものだろうか?

犬と猫

川端康成といふ先生が、私の作品に対する批評の中で、「読後の印象が空白である。」といつておられた。その時は何のことやら分りませんでしたが、今になつて始めて、その意味が分つたような気がします。

(……)

 私はこれ〔演技についての山本安英の文章―引用者〕を読んで、私の作文は、舞台の上で遊んでいる犬や子供の芸にすぎないことを、無心さ、純真さの点では犬にも及ばないことを、そして、大人の優れた演技に較べては、その足許にも及ばないものであることを、はつきりと教へられました。p.370

 

 豊田正子さんはそのように言った。だが、彼女は根本的に誤解している。

 川端康成さんが「空白」だと言ったのは、彼のあのぎょろりとした目を慌てて背けたせいだということが一つ。

 「見たものをありのまま書く」などということが出来る人間は、非常に限られているのだというのが一つ。

 そして最後に「犬」は「猫」のように書くことは出来ない、という点である。

 ただ一つ、豊田正子さんが間違えていないことは、「子供や犬」が「舞台の上にいる」と認識できたことだ。これは著者である坪井さんの論点に関係する発言である。すなわち、子供や犬は、自ら進んでではなく、その理由と影響をよく知らないで、褒められてうれしいから、言われるまま舞台に立った、ということだ。

 だが、「表現」とは第三者に晒すことである。彼女の悲劇は、彼女を舞台に押し上げた大人たちが、彼女を護らなかったところにある。
 「正直でいなさい」と親に教えられた子供が「王様は裸だ」と叫ぶ。大人たちが狼狽して子供の口を塞いだり、「あの子はおかしい」「間違っている」と非難する。子供にそう教えた両親までもが周囲の大人と同じ目で少年を見る。だがこれはまた別の話である。

透明と空白の違い

 川端康成の前に立ちはだかった白い壁。それは、けっして透明ではありえない。なぜならば、「ありのままに表す」ためには必ず、不透明な主体を通過させる必要があるからだ。

 この本は冒頭で『吾輩は猫である』を挙げて、「猫」が「写生文」の「書き手」としていかに相応しいかを論じている。
 「猫」はどこにでも入り込み、人語を解さないと高をくくっている人間達はあけすけに様々なことを話す。ある意味で、これは「綴方」の使命に則しているのだが、重要なことは「猫」は「透明」ではなく、周囲が「透明」とみなしているに過ぎないという点である。

 坪井さんは、見たまま聞いたままを書くことが、主体性の放棄だということを、ぎりぎりで回避し、

 このような豊田の綴方の表現を〈自己表現〉などと呼ぶことはもはや出来ない。いや、あまりに純粋化(著者傍点)された自己表現であるゆえに、自己自体が透明な表象として機能してしまっているのである。それは純粋であると同時に空虚であり、透明な対象の再現の向うには掴み所のない真空がぽっかり広がっていた。p368 再掲

と言う。

坪井さんは、豊田さんの意図に反して「表現」されてしまったことを指して「自己表現」と呼ぶことはできない。と言っているのだと思う。

 しかし私は、それが書かれた時点でもう「自己表現」以外のなにものでもないのだと考える。発表意図の有無は問題ではないし、発表による周辺への波及効果やそれによる反響などは、自己表現以降のことなのである。

唯一無二の正確さ?

 この引用文の前には「写真機や録音機さながら」との表現もあるが、写真や録音に「主体性」が存在しない、などということはない。

 絵画なら技術や表現の幅が広い。写真はその幅がいくらか狭まる。だから、絵画のほうが写真よりも自己表現に適している、などということは無い。文章もまた、同様だ。

 かりに、観察力と語彙が優れているものが同時刻同一場面を「見たまま、聞いたまま」を正確に書いたとしても、両者が全く一致するなどということはないし、一致させることを目指す必要もないと思う。

観察者の立脚点

 また、善意の第三者の立場を徹底できる出来事など、皆無であることを忘れてはならない。表現とは自らの立ち位置が認識できたことを表すことである。立ち位置の無い観察などありえないし、どうでもよいものであれば表現しようとも考えないのではないだろうか? 透明な対象などない。それは単に、観察しようとしていないだけである。

主観と客観

写生文における「客観描写」が「一般性」を廃して「個別性」を追求するものである点で最も「主観的」であるという逆転に留意すべきである。

 綴方とはいわば「デッサン」のようなものであったと思う。太陽を赤く塗るとか、たんぽぽを黄色く塗るという記号化から脱却するために、写生を行う。

 言語習得が「紋切り型を記憶し活用すること」である点が、一般化を脱する上でひじょうな障壁となっている。透明な対象がないということは、透明な言葉もない、ということだ。そういうものを手段として「写生」を行うということの困難を、綴方は教えてくれるだろう。

「白」とは「無垢」を意味する。それは「一般化」を脱却したコトを意味するのである。表現に透明はない。ただ、それを透明と感じさせることができるだけである。

 だが、透明というものが、手垢に塗れた比喩にすぎないことを忘れてはならない。

おわりに

「赤い鳥」については、いずれ勉強してみたい。今の印象では、非常に否定的にとらえざるを得ないのだが、その感じがどこからくるのかを、知っておくべきだと考えている。