はじめに
ずっと、「裏」のことを考えていた。
「裏」は「裏ー表」の「裏」である限り、結局は表層に露呈しており、「表」と何らかわりがないのではないか。この世界のアクセス可能な面はすべて表であり、表裏とは相対的、まさに「陰日向」の違いのみである。
「裏」について考える前には、「内」について考えていた。外と内とを形作る構造が「襞」であるのなら、そこにはやはり「表」しかないと思った。
トポロジカル
襞と表
襞と表については、『フィロソィア・ヤポニカ』(中沢新一)142pが示唆的である。
この仮定(原腸形成)を通してはじめて動物はみずからの折れ込みをもった襞となる
以下は原腸形成についての参考ブログ。「自宅で学ぶ高校生物」
どうやらこの世界は「絶対的裏」と縁を切ったところに存在する。だから、この宇宙は非対称なのだ。では、いかにして「絶対的裏」は隠されたのか?
ちょっと寄り道
メビウスの輪を真ん中から切断する実験はおもしろい。
ただ、一度捻って繋げるだけで、それは通常の輪とは全く異なる性質をもつ。空間は、折り曲げたり、捻ったりすると、とたんに様相を変える。だから、「折り紙」は、次元操作を体感する格好のモデルだといえる。
「コト」のこと
「コト」とは
我々は三次元存在である。言い換えると、三次元存在を「コト」としているものが我々である。
「コト」とは、「移動」に集約される存在形式である。「移動」とは「空間距離」であり「変化」である。
「コト」とは「変化(諸行無常)」である。この「変化」を測る尺度が「時間」だ。「時間」は「空間」間の「移動」を「速度」として表すことを可能とするが、「速度」を「認識」するのは「疎外された個」のみである。
「個」とは
「疎外」とは「自覚」によって可能となる鏡像的自己投影によって刷り込まれる「個」の立ち位置である。だが、「外部」も「部分」も持たない「絶対的一」から、如何にして「個」と「他」を隔てうるか?
「近代的自我」を前提して遡るのではなく、「絶対的一」から如何にして「近代的自我」が発生しえたのかを問うとき、はじめて「近代的自我」を批判することができるというのはまた別のお話で。
多様性の確保
「一」が多様に展開することについて、「個」が「一」を映し出す鏡であったり、「一」がさまざまな形に流出したりといった理論が唱えられてきた。
せっかく「量子力学」がある現在なのだから、ここは「絶対的一」=「量子重合わせ状態」としてみてはどうかと考えた。
西野研究室 様
存在とは
量子コンピュータにおいては、「0」と「1」が用いられるが、「存在」に関して適用されるべきは、「存在」と「非存在」ということになるだろう。
「即ち存在は直接なる肯定でなくして、否定を媒介とする肯定であり、かえって非存在を自己に含み手これを止揚する存在たる外ない(「論理の社会存在論的構造」田邊元)『フィロソィア・ヤポニカ』(中沢新一)
観測者無き「絶対的一」
無限の可能態を包括した単純極まりない「絶対的一」は外部をもたないため、状態を収縮させる観測者が不在なまま、流動している。
ここに、「観測者」が現れ、無限の可能態の一つが「表」として展開するのである。
フラクタル
差異と同一性
しかし、「情報とは差異の集積」である。差異とは部分間の差異を意味する。すると、「部分を持たない」とする「絶対的一」の性質に反するのではないか?
全体=部分 を成立させるために「真如」から「曼陀羅」。そして「フラクタル」を導入することにする。
量子の重ね合わせ状態がフラクタル構造を有しているのならば、全体と部分の区別は消失する。
部分と全体が常に等しいフラクタル構造においては、「部分を持たない」というよりも、「部分と全体とを区別することができない」というほうが正しい。
「絶対的一」は「無数の差異が畳み込まれたフラクタル構造体」である。
青天の霹靂
不明なこと
観測者発生のプロセスは、未だ不明だが、唯一確かなことは、ここに「意志」は介在しないということだけだ。
静電気的な?
流動する「絶対的一」に、何らかの原因で「歪み」が生じる。それは、ごくありふれた青天の霹靂だとしかいえないのかもしれない。
流動体の運動によって生じるエネルギーといえば、静電気などが思い出されるが、「コト」が生じる以前の知見に関しては、宇宙量子論のエレガントな仮説を待つしかない。
ともかく「歪み」が起こり、濃度差から軋轢が生じて温度差となり、渦が発生する。
渦
散逸構造体
渦はある範囲を影響下に巻き込んだ散逸構造体となる。この渦は他の渦、及び渦以外の場との間に隔たりを認めるようになる。「自他」の区分が起こったとき、内と外が分化し、外が内を強化するのだ。そして巻き込まれた範囲にある量子重ね合わせによる無限の可能態の一つが展開する。
可能態の展開
フラクタル構造をもち、どの部分も全体に等しい「絶対的一」だが、渦の閾値に分割された可能態がどのように展開するのかは、前述した「歪み」発生時の状況や、その後の展開の起こり方によってランダムになると考える。今はまだ、運命論の出る幕はない。
昇竜
表世界
こうして渦は雷鳴轟かす嵐となって、表も裏もない「絶対的一」から「表のみ」の宇宙、つまり「コト世界」が生じるのである。
バニラチョコミックスソフトクリーム
大いなる流動体から、波と泡を蹴立てて、うねりくねる龍が昇っていく。龍は、バニラチョコミックスソフトクリームのように、「絶対的一」の「存在」と「非存在」の二重螺旋運動によって「コト」となる。
太極図の出現
「コト」は決して切断することはできないが、便宜的に(人間は「動態論」を自在に扱える次元に至っていないから)その構造を微分して捉えようとする。
「コト」を便宜的に切断すると「モノ」が顕れる。龍(コト)の切断面が太極図(モノ)だ。
絶対的裏へ
この図は、「存在」と「非存在」の螺旋ミックスたる存在を端的に示している。そして、飛び地のようにみえる白黒の丸こそが、「絶対的裏」へと隠されてしまった「絶対的一」への、ワームホール的つながりだと思う。
「龍」は海を離れたが、海は龍を忘れない。「コト」はかならず瓦解し「絶対的一」へと還る。量子もつれによって、その変化は「絶対的裏」に伝わり続けているのだろう。
参考
浅田彰『構造と力』の《クラインの壺》モデルは間違っていない ~ 一トポロジストの異論 2002-03-28 作成(2009-04-26 更新) 菊池 和徳 様