望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

ぼんやりとした不安の原因「試論」 -能動的自我の齟齬

はじめからエクスキューズ

 中動態の本、まだ半ばです。読み進めたらこのブログ内容もupdateしなければならなくなる予感はありますが、芥川さんや、啄木さんや漱石さんやなんかが取り付かれていた「ぼんやりとした不安」の原因について「試論」として書いてみます。

不安の分類

 不安は大別して三つのレベルに存在すると仮定します。

①絶対不安

 これは、物の存在が宿命として背負う、いわば「底抜けの不安」です。
 物は、その誕生と終焉とを確定できぬまま存在しています。自らがなぜこのようにあるのかという根源を知らぬまま、量子ゆらぎと確率に翻弄され続ける不安。
 これは、解消不可能です。というか、この不安が解消されるということは、非存在となるということなのです。(※仏教でいう「悟り」の境地においては、解消される)

②通常の「不安」

 この不安はもっとも低いレベルに発生します。定義するなら、
「自らの能動的作用力の及ばない不確定要素のために、現在の不確定な状態が、無期の未来に存続すると想定されるときの不快感」でしょうか。
 不確定要素が確定しさえすれば、この不安は解消します。簡単です。

③「ぼんやりとした不安」

 これは、①と②の中間、といってもだいぶ②に近いところに発生します。②の定義を援用するなら、
「不確定要素が不確定なために、現在の状態が無期の未来にわたって不確定なまま存続すると想定されるときの不快感」となるでしょうか。
 なので、なにが不確定なのかをまず確定した上で、その確定された不確定要素を確定させることができれば「ぼんやりとした不安」は解消できるということになります。

ぼんやりとしているもの

何が不確定なのか

 ①では、ルーツが、②では、任意の他物が、それぞれ不確定でした。では、③においては何が不確定なのでしょうか? そしてなぜそれが不確定だと特定できないのでしょうか?

 そのヒントはやはり「中動態」にありました。

すなわち、能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前景化しない。(中略)つまり、ギリシア人は、われわれが「行動の原動力」だと考えているものについての「言語」さえもっていないのだ。

(第3章 中動態の意味論)

 「ぼんやりとした不安」は近代的自我の発明に付属して蔓延しました。そして、先の引用にあるように、近代的自我とはギリシア哲学以降、中動態-能動態 の関係から、受動態-能動態 の関係へと文法が書き換えられたところに始まっていると考えます。 つまり、「類」⇒「意志」=「自我」=「主体」⇒「個」(責任と義務)という変遷において、我々が「底抜けの主体」として自立することを要請されたためだったのだと考えます。

 なぜ、中動態は受動態へとってかわられねばならなかったのか。読み進めればそのうち出てくるのでしょうが、「主体の自立」は「近代国家の存立」に要請されたとみています。義務と責任をおわせるために、多様な選択肢の提供を自由だと洗脳する資本主義経済などについてはまた別のお話で……

何が不確定なのか その2

エゴです 

 ③においては、何が不確定なのかが不確定でしたが、ここで、それが「自我(エゴ)」だった、と仮定します。

全体教育

 「主体として能動的であれ」との要請から「自意識」が再発見されました。なぜ、再発見というのか? 成長過程において、自我の発達と成長が見受けられます。このあらぶる自我を「社会に則して矯正する」ことを教育と呼びます。かつては「個」よりも「類」のために行動するよう教育され、利己的に生きることは禁じられていました。

自意識肥大

 近代的自我からみれば、この行為は、自我の抑圧にほかなりません。能動的に考え、行動することを第一義とし(同時に国に義務を果たすよう調教することを忘れず)、自ら考えて行動することを良しとする教育が採用されたときから、「自意識」は肥大していきました。

xについての意識

 井筒俊彦さん『意識と本質』によれば、「意識とは必ず何かについての意識」です。つまり、意識は対象と観測者とを分離する働きをもつということです。意識されるものは意識するものとは別のもの。自意識とは、自らを自らから疎外するのです。

流出する意識

外へ外へ 

 意識がかならず何かについての意識であることの意義は、意識は外部に流出させるべきものであるというところにあります。

賑やかな世界

 自己とは、他人の意識の流出が浮かび上がらせる輪郭のことです。私達の意識はつねに他の存在にむかって流れ出し、その輪郭を自らの内部に写し取るためにあったのではないか。そこには「自我」も「利己」もありえません。ただ、自分以外の存在物に満ちた世界だけが広がっていたはずなのです。

悪循環する自我

 「ぼんやりとした不安」における不確定な不確定物とは、すなわち「自我」であったのだと思います。そしてその「自我」を「自省的意識」によって確定しようとする行為が、自我をますます不確定にしていくのです。自分を自分から追い立てる行為。それが「自意識」なのです。

おわりに

 ぼんやりとした不安は、受動ー能動の対立軸におかれた自我のおおいなる齟齬から発生していました。そして現在の社会のあらゆる問題は、この齟齬に起因しているのだと思います。

次にこのテーマを採り上げる際には、「多様な選択肢という自由の不自由さ」について考えることになるでしょう。そして「自分のため、という一切の行為は否定されなければならない」とか、「アナーキズムのための教育論」などを検証していきたいと思います。