望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

MはSにするが、SはMでMになる

「M」が最強であるワケ

はじめに

今回のブログでは、サディズムマゾヒズムについて、性的快楽を伴うか否かによる区別に意味は認めない。例によって、一般的理解から幾分ズレた解釈によって好き勝手に述べるものである(以下「M」と呼ぶ)。

 むろん、異論は認める。

以下は、無料のブログサービスに開設された無料で閲覧できる、私見にすぎないことを、お断りしておく。

快楽原則

人は快楽を得るために行動する。快楽を我慢することも快楽に通ずるから我慢できるのである。「夢をつかむための努力」が、まさにその典型である。

 快楽を得ることが叶わなくなった時、人は絶望する。生きる意味を失う。結局は有限性に絶望するのである。

絶望とは

絶望とは、快楽の術を失うことだ。したがって、絶望に快楽を見出せる人間こそが、生に対して貪欲だということになる。それはつまり、「死」に快楽を見出せる者がもっとも生に対して執着的なのだという逆説に通ずる。有限の中に無限を夢想するのではない。「有限と無限」という分別を超える「存在=空」に漸近する術が「生=死=快楽」を掴むことなのではないか。

エロス=タナトス

死ぬために必要な万人に共通なただ一つの条件、それは生きていることだ。生きるということは、快楽を求めるということだ。「思い残すことはない」といって死にゆく者の微笑み。そのように死ぬことを多くの者が求めるだろう。だが、その死にざまが意味するのは、「生きる快楽」に飽和してしまった姿であり、すでに「生」に対する執着を失った屍の死に他ならない。

我が人生に一片の悔いなし

やりきったという充足の内に迎える死は、単なる終焉である。横たえた身体を「生の出がらし」と捉えることである。

「欲望の枯渇」=「死」である以上、それはまさに「死」以外の何物でもない。後悔のうちに死ぬことを恐れるあまり、生に対して性急であり、そのため生に対して妥協せざるをえず、得られる快楽のレベルを下げた分、快楽を甘受するセンサーを低めに設定し、かりそめの「充足」で満たす「生涯」。自らの人生を自らの手で満たそうと躍起になって、「死」というタイムリミットまでに、細切れにして快楽を得よ!という道徳教育。「死」=「無・途絶」との刷り込みが、快楽を、生を、制限しているのである。

「生」に縛られすぎ

今回のテーマは、「生」という常識がもたらす様々な「縛り」をいかにして解いていくかである。それは「死」を恐れないという態度とは少し異なる。

武士道と「M」

「武士道とは死ぬこととみつけたり」とかいう言葉がある。これが、「武士らしき名誉を守る死」であるとしたら、たんなる「ナルシシズム」であるし、「個人の信念を貫くための死」であるとしたら「エゴイズム」である。「大義に殉ずる死」であれば「マゾヒズムナルシシズム」だ。「大儀に殉じ、絶命する寸前に、主君から「お前誰?」」と真顔で言われた瞬間に性的興奮を得た時、ようやく「M」らしくなってくるようである。

サドとマゾ

「S」

マゾヒズムサディズムが表裏関係にあり、両者は相性が良いと捉えられる向きが多い。しかし、この見方はサディストにとってはいささか具合がわるいようだ。

サディストとは、他者を支配する欲望を基本とし、具体的には相手から全権を剥奪することに快感を覚えるものであると考える。(以下「S」とする)

要するに、「S」は相手に自由意志を認めないのである。つまり、相手の欲求を無視し、相手が屈服する姿に性的快感を得るのだ。

「S」→「M」

つまり、「M」に加虐したところで、それは「M」の欲求を満たしているということになるため、「S」は「S」としての快楽を味わえないどころか、「M」の望みのままに知力体力時間忍耐を駆使して「M」に仕える「M」となり果てているということになるのである。

「S」の悲哀

そして、常に能動的に相手と関わらねばならない「S」は非常に疲れる。相手を無理やりねじ伏せねば快楽が得られないのだから、体力、財力、権力、を保持し続けなければならない。疲れ果ててしまったからといって、「S」は「M」のように快楽を得ることはできない。疲れてしまった「S」を救えるのは、別の「S」である。疲れた「S」が強い「S」に「M]として調教されることだけが、疲れた「S」が快楽を得る唯一の方法となる。晩年、よい「S」にめぐり合えることを祈る。

それぞれの自我

「M」のそれ

その点「M」は、あらゆる相手を「S」に仕立てることに長けている。「M」は抗わない。従順で愛らしく100%相手に尽くし、頑なさを持たない。「M」の自我の根底にも「ナルシズム」はある。だがその「ナルシシズム」が愛する自我は、「相手から踏みにじられるため」の快楽製造機に他ならない。本性は、その快楽製造機から悦楽の滴を搾り取る部分にあって、もはや「人の形」をしてはいないのだ。

「S」と「M」

「S」の自我がどこまでも「人の形(悪魔の荷姿であったとしても)」であり、その姿に固執し、その保持と確認のために他者を求めてるのに対し、「M」の自我の特異性としぶとさと貪婪さとは比べるべくもない異質なものである。「M」は自我を超越して存在するのである。

自傷からも

「M」は享受からも喪失からも快感を得ることができる。「S」は他者を必要とする。しかし「M」は他者を必要としない。つまり、「自傷」もまた、「M」の特権である。「S」は自らの苦痛に耐えることはできない。しかし「M」はそれが苦痛であるということだけが重要となり、その苦痛を与えているものが、他者であるか否かは問わない。

「M」は「S」を製造し、「S」から搾り取り、「S」を使い捨てる。

「M」は「死」をも快楽として甘受できる。

「M」という態度だけが「存在=快楽」に対して純粋なのであり、その意味でもっとも「生=存在」を肯定したあり方なのである。

おわりに

この世にあらゆる執着を残さぬことを説く仏教からもっとも遠いところに「M」がいる。「M」はマーラの「M」である。