望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

微笑みながら餓死する豊かな心

要点まとめ

トレードオフ

「真」の豊かさは心の豊かさ

「偽」の豊かさは物の豊かさ

物欲の囚人の心は貧しい、という風潮

満たされぬ物欲機関

欲求」は「心」から起こる

「心」は欠落を埋めたがる

その欲求は「物」に向かう

我々は、そのように仕向けられている。

だが「心の欠落」は「物」では埋められない

結果、際限なく「物」を求める

これが資本主義の運動原理

身体を棄てる

身体は物で保たれる。

生命は物で維持される。

思考や感情は、身体あってこそのものだ。

身体なき思考や感情を仮定するとしたらそれは霊魂だ。

(もしくは媒体に記録された情報;これはまた別のお話)

身体を棄てれば「偽りの豊かさ」に囚われることはなくなる。

だがその場合「我」を棄てることにもなる。

貧すれば鈍す

貧困に喘ぐ身体に「美」や「慈愛」などは無意味だ、まず喰うことが最優先。

それが肉体の掟だ。世界は肉体で支えてられている。

「美」や「慈愛」や「助け合い」を実現するものは、肉体である。

「心」を具現化できるのは「肉体」である。

(霊魂によって肉体に働きかける方法として一般的なものに、「祈り」がある。だが祈りには祈りの姿勢、祈りを収める肉体が不可欠である。祈る主体は生存しているので、生霊を飛ばしているということになる。ところで、「祈り」は空間を越えるが、「時間」を越えることはできない。一方、「慰霊」においては、「慰霊」される魂は肉体を離れているため、すでに時間という区分を離れている。時間を越えているのは「死者の魂」の方だ。身体を離れたことにより魂は個別性を失っている。残るのは怨嗟、怨念、無念、といった情念の波動で、これは恒常的にこの世界の隅々に響き渡っている;これらもまた別の機会に)

「肉体」が維持できなければ何もできない。我身、家族の身、仲間の身、他人の身。

理想の死

 維持できなくなったら、本当の豊かさでいっぱいの餓死者として死にたい。そのような死こそ、あらゆる宗教が求める入滅であろう。もっとも、心の豊かな人を餓死させるような社会は地獄だが。餓死させないためには食わせねばならない。

 

格差の有効活用

富裕者は感謝して施せ

過分に持つことは罪だというコンセンサスを得ましょう。

資本主義社会は必然的に罪人(大資本)を作り出します。

罪滅ぼしのためには、慈善事業、寄付、貧困者対策が有効です。

もっともっと罪悪感を煽って、もっともっと施させねばなりません。

施せば「物」から解放されます。その喜びに感謝し、施しを受けてくる貧困者がいてくれることに感謝しましょう。彼らは安い賃金で雇った労働者や、雇い止めした人達です。会社が切り捨てた人々に分け与えてこその、利益ではありませんか。

宵越しの金は毒素を撒き散らすから貧しいものへ施せ。

貧困者は感謝して受けよ

施されて卑屈になってはなってはなりません。受け取るのが「金銭」だと思えば、欲求にキリがなくなってしまいます。受け取ったのは「心」です。だから感謝を忘れてはなりません。罪深く慈悲深いお金持ちのおかげで、この身体を長らえることができたのです。感謝しましょう。感謝は無料(ただ)です。

宵越しの金は毒素を撒き散らすから貧しいものへ施せ。

おわりに

この社会。なにしろ、「身体」を維持するためにしなきゃならないことが多すぎる。生命を維持するための活動が生活なのだ。

 

 そういう社会で、「身体を棄てる」という選択は、正しく、反社会的だといえる。そもそも、本当に、身体の維持にそれほどの労力が必要なのか? またそれほどの労力をもって維持する価値があるのか?

身体維持の意義を考えることは、この社会の存続意義を考えることだ。

人は老いる。人は病む。人は事故に遭う。人は殺める。人は喰らう。

肥大化した大脳新皮質がもたらした「身体を越える(かのごとき)想念」は、早晩、自らの肉体からの脱出を企てるだろう。「心」が「身体」のエコーであるに過ぎないことを忘れて。