望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

私詩論01 強制写生装置としての季語 ―俳句のこと

はじめに

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私と俳句

 年寄が、仁丹とともに懐中におさめ、盆栽のようにいじくりまわすつまらないモノだと考えていたこともある。芭蕉さんとか一茶さんとか読んでも、のほほんとした明るい農村のような、NHKで取り上げられる、最大公約数のような視聴者投稿による日常報告だったり、誰が書いても同じような「絵手紙」みたいなものじゃないかと、思っていた。

私の俳句の入り口は寺山修司さんだった。

 花鳥風月とは異なったどろどろとしたもの、おどろおどろしいもの、若々しい反抗といった、精神性、自己、を深く抉る作風が、俳句にはあったのか!と驚き、そういえば、武士は辞世の句を読む。この精神性、その潔さに感じ、そこから、鬼城さん、多圭子さん、三鬼さん、などを読み、井水さん、放哉さん、山頭歌さんなどの無季自由律にも親しむようになった。

 その過程で、「別冊宝島」の俳句の号は、俳諧の発句から俳句へ。写生ということ、俳句の精神性など、ひじょうに勉強になった。

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だが実作となるとなかなか難しい。

 季語を五七五に読み込み、なおかつ… といった作業に没頭するあまり、他のあらゆることがおろそかになる。
「出来事、感想を記録するのにひじょうにポータブルな俳句という形式」などという煽り文句があったが、どうしてどうして。そのようにポータブルにまとめることがいかに、困難であるかは、「プレバト」を見ていれば分かるだろう。

 実作しない身で、何が「詩論」だと思われるだろう。

 しかし、この世界を「俳句というコップで掬いとる」(寺山)作法(精神性)は、たとえ実作をしなくとも、ひじょうに有用なのだ。

 写生の本質(季語定型)

俳句が俳句であるためには、

①定型(五七五)

②季語、季題

③切れ字

 の三つを備えていなければならない。

 そして、俳句を古臭く、不自由に感じる一番の要因は「季語」ではないかと思う。それでも、「季語がなければ川柳だよ」という浅はかな指摘にも一理あって、やはり俳句には季語が必要だと、私は考えている。
 無季自由律の俳句性を認めていながら、「季語」という縛りは、世界をありのままにとらえる上では絶対的に有効なのだと確信しているといってもいい。

「季語」とは何か。

 その歴史は知らないし、定式化された花鳥風月、といった論点にも興味はない。

 季語については、

『単に季節をあらわす言葉にとどまらず「季節の鼓動に自分の呼吸を合わせるもの(飯田龍太)」「自然と自己とを融合させる」』(寺山修司の俳句入門 俳句航海誌1 齋藤慎爾)

 という意見におおかた賛成だ。

「季語」という強制装置

では改めて、なぜ季語を入れるのか

① 作り手と読み手との間をとりもつ共通認識回路としての役割

 五七五という文字数で、心、内面、観念論のみにはしってしまうと、他人には全く意味不明となる可能性がたかい。

② 大局的視野をもつため

  心、内面、心情などは、「自然」の中で、その時その時の「お天気(環境)」によって右往左往しているのであるから、自らの心や感情などといった、手近な浅い部分の振幅よりももっと、大局的な見地で、その状況を捕えるべきであり、そのためにはその時の「自然」の状態をじっくりと観察し、どっぷりと浸ることが正しいからである。

③ 思想は唯物的でなければ用をなさないから

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 『日本人は思想したか』を読むまでもなく、日本人は「思想」を純粋に語ることを避けてきた。それは、形而上学などという机上の空論にはまともに取り合えなかったからではないかと思う。おそらく、ぼんやりと考えている余裕がなかった人と、本当にぼんやりとしていても生活が成り立った人の二種類しかいなかったからだろう。

 その変わりに、日本人は様々ものを○○道、として究めることに長けていて、その奥義書には、形而上的といえる思想が、じつに巧みに織り込まれている。

具体的な実践とともない、その習熟によって精神性が高められるという考えが日本においては根付いている。だから、「宗教、哲学」は「自己啓発セミナー」にとってかわられるのだ。(余談)

 「季語」とは、いってみれば「奥義」なのである。そこに即して自らを照らす時に、自らを取り巻く世界の秘密がひもとかれるのだ。

このように、俳句にとっての季語は、読み手と作り手の双方にとって、有用なのだが、 季語がはまらない情景を、いかに処理すべきかと悩むこともおおい。

 そんな場合、私は「俳句」をあきらめる。

 すぐに取り出せる「季語」が貧しいことがその大きな理由の一つだ。とはいえ、現代にあって「季語」はさらに展開されなければならないとも思う。

俳句によって季語を解体する

切れ字のこと

  俳句によって、世界の本質を垣間見せようという心意気。垣間見せるのに一役かうのが、「切れ字」であると、寺山さんは言っている。

 そこには書かれていない数行があり、その数行の空隙が、この世とこの世の本質とをつなぐ抜け穴となっているのだというのだが、その考え方はひじょうに愉快だ。

十七音のこと

 どだい、十七音のみでなにもかもを言い表そうと考えることが間違っている。

 言わないことで、言い表すという技術が、俳句には欠かせない。多くのことを十七音に詰め込むのではなく、ごくごく普通の出来事の中に、世界の本質をのぞかせた瞬間を捕まえることが大事なのだ。そのような刹那を留めるのには、十七音でも多すぎるほどだ。と私は思っている。

季語を機能させる

 そのように世界を捕える手がかりとなるのは、花鳥風月の運動であり年中行事のメンタリティーなのだと考える。だから、季語を季語として機能させるためには、歳時記そのものが作り替えられなければならない。単的にいえば、日本画の手本帳のようなものから、細密デッサンへの脱皮である。類型化から、個別化へである。永遠性から一回性へである。

 今後は、その言葉が、歳時記にあるか否かではなく、季語として機能しているか否かが問われるべきなのだ。

 文語体について

最後に一言。

 短詩形にとって、語尾の多様さは死活問題で、残念ながら口語体においてはあまりにバリエーションが少ないようである。

 言文一致は、日本語を貧しくしたと思う。

 文語体はひじょうに古臭く感じられたり、逆にそれらを用いることで俳句っぽくなったりもする。そもそも「切れ字」じたいが口語体では、ひじょうに間抜けになる。

 文語語尾を使いこなすには、勉強が必要だ。私も全然できていない。けれども、さまざまな時制や関係性を少ない文字数で適格に区別できる文語語尾は、どしどし使っていくべきだと考えている。

さいごに

 と、まったく実作なしで俳句論を書くことに、なんの説得力があるか、と思われるむきも多数いらっしゃるものと思うが、作れないものは作れないのだからしようがない。

 俳句を作る気はあるが、そのための精神が鍛えられていないのである。

 日本人は物に即して哲学を語ることに長けているといいながら、その修練のメソッドは全くの精神論に終始するところも、そういえばおもしろいものだ。この両極端についてはまた考えてみたい。